住まいとはきもの【その壱】第十一話

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 開拓時代の広島の家はどんなふうだったでしょうか。当時の思い出を語ってもらいました。明治三十年(一八九七)私は西の里で生まれました。家はササやワラぶきの小屋で、人口にはムシロをたらしただけでした。部屋のまん中に炉があって、炉(ろ)鉤(かぎ)でナベやテツビンをつるしていました。小屋の中はススで真っ黒になってしまいます。あかりはランプはまだなく、コトボシといって石油を入れた芯に、火を灯すものを使っていました。石油を買うのに西の里に店がなかったから、共栄にあったなんとかという店まで、四合ビンをもってよく買いにいったものでした。中谷完二(西の里)
「入植したころは、ムシロをつるしてある小屋の入口を、クマがのぞいていたことがあって、とても恐ろしく一晩中寝ないで火をたいていた。」と母が語っていました。内山スナ(広島)
 そのころの服そうは、着物にゲタかゾウリでした。素足なのでヒビやアカギレができて痛かったです。冬になるとワラであんだツマゴに毛布ぎれを足にまいて、マントを着て学校に通いました。ツマゴをゲタ箱に入れておくと、凍(こお)ってカチカチになっていました。シモヤケになることもたびたびでした。赤倉洽作(輪厚)
 岸本トモさん(故人)は十四歳の時、丸太の皮ハギの仕事に出ましたが、はきものはツマゴにケハンでした。明治二十一年(一八八八)のことです。