水田はじめのころ【その壱】第十三話

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 明治十七年はやくも輪厚川の両岸に水路をつくり、その後毎年水路をのばしていったわけです。私が田んぼへ入ったのは十三の時、明治三十四年(一九〇一)でした。田んぼへ入るときは、土のようすを見るために、はだしで入りました。苗植えをしてからも、一日三回田んぼを見にいきました。八十八才まで田んぼへ入りましたよ。住田伊三郎(中の沢)
 明治四十三年ころから、いまの産業短大のところ輪厚川の上流一キロぐらいで田んぼをつくりました。赤毛という品種でしたが、不作凶作はなんどもありました。大正二年は大凶作で米粒らしいものは、ひとつもとれなかったです。赤倉治作(輪厚)
 秋の稲刈りはぬかるので、板でゲタをつくりそれをはいてしました。モミすり、精米などみんな人の手でやるので手間がかかりました。橋場只吉(北の里)
 島松川のそばで田んぼをつくっていたんだが、湿地帯でぬかるもんだから、家の方までずっと七尺幅(ニメートル十センチ)くらいの水路をほって、丸木舟に刈りとったイネをつんで、ひっぱってきたもんです。野村源治郎(南の里)
 田植えのとき娘たちは、カスリの着物の裾をはしょって、赤いオコシを少しのぞかせてねえ。朝四時半くらいから晩くらくなるまで田んぼに入ったもんです。みんなで広島県の田植え歌をうたったもんですよ。内山スナ(広島)