汽車が走った大正十五年【その壱】第二十二話

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 大正十五年(一九二六)八月、村人が待っていた汽車が通ることになりました。
 北海道鉄道という会社で、苗穂、東札幌、沼の端の間が開通したのです。北広島駅もできました。はじめ二、三回の往復でした。(昭和十八年やっと九往復)それでもたいへん便利になったとみんなで喜びました。それまでは札幌へゆくのにも、野幌か厚別まで歩いて、そこから汽車に乗ったのです。しかし汽車が通るようになったので、馬車負いの仕事がすたれ、馬車負い相手の宿や店も廃れていきました。
 この鉄道は話が出てから、それまでに十五年もかかったと、伊藤八郎さん(広島)は語っています。当時苗穂から恵庭までガッタンコットンと二時間近くかかったけれど、時間に遅れた時など手をあげると、発車を待ってくれたりしたと後藤寿一さん(南の里)は言っています。当時広島から札幌までの汽車賃は四十銭でした。(ビール一本四十二銭、小豆一升三十二銭の時代でした。大正十五年上野幌の駅に勤めた谷口芳太郎は日給九十銭とのことです。)
 札幌の市内に電車がはじめて走ったのは大正七年のことです。開道五十年記念の博覧会のあった年でした。定山渓温泉まで鉄道がついたのもその年です。それまでは札幌市内でも馬車鉄道といって馬がレール上の客車をひいていたのです。
 大正十四年札幌市の人口十四万五千人、函館市が十六万四千人で函館の方が人口が多かったのです。