マキ売りの帰りに「月寒パン」【その弐】第六話

34 ~  / 80ページ
 
 わしが十四、五才ころ、農家の冬の仕事は、木炭やマキを札幌まで運び売ってくることだった。馬ソリにマキならば一敷をつんで、夜中の三時半ころ出かける。一敷というと、だいたい百本ということになっていた。本式につむと、八十五本から九十本でいいんだが、そのころはみなサービスしていたんだな。馬ソリが空(から)になって、月寒まで帰ってくると、ちょうど焼きたての「月寒パン」が出ているんだ。焼きたての「月寒パン」はうまかったね。それが楽しみで、焼きたての時間に合わせて帰ってきたもんだ。夜の九時ころだったな。月寒パン一ケ一銭だったよ。そのころマキは三方六のマキといってね。一本一銭八厘から二銭、一しき一円七十銭から一円八十銭で、米一俵が四円八十銭くらいだった。バラ売りもしたんです。 
(大曲 坂本安太郎)

 
 大曲、仁別、輪厚地区の林産物として、木炭用材とならんで、マキ材が札幌の人々に売られていったのでした。マキ材としては、ナラ、イタヤなど固い木がよく、また用材をとった余りも利用しました。そのマキをストーブに入れて燃やすのに、二ツ切りにして小割りすることを、仕事にする人も出るようになりました。大正時代に入ると木も少なくなり、千歳方面で木炭作りする人も出ました。 (『大曲百年の歩み』から)