赤い腰巻のタコ労働【その弐】第二十二話

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 大正十五年、広島を通る鉄道の建設のために、南の里に二ヶ所のタコ部屋がありましたよ。ひとつは幹部用になっていました。タコ部屋は寝るだけのもので、腰かけなどはなく、食事もみな立ってするんですよ。その食事もそまつなもので、ご飯にみそ汁とイワシなどでした。仕事は線路の路床づくりで、トロッコを押し、モッコをかつぐという激しい労働なんですね。夏は上半身ハダカでね。下は赤い腰巻をしていました。逃げてもすぐにわかるからだという話でした。逃げてもつかまると、丸太棒でなぐり半殺しの目にあわせたものです。なぐる現場も見ましたが、それはひどいもんでしたよ。
(南の里 沖中武雄)

 西の里には、三ヶ所のタコ部屋がありました。駅の近くと、大曲の沢を下るところと、広島よりの三ヶ所でした。六十名か七十名のタコがおり、棒がしらという幹部が七、八名いたように思います。
(西の里 片桐英雄)

 そのころのタコ部屋は、片桐さん近くのは、渡辺飯場(はんば)で、中野常吉さん近くの飯場と、あと一ヶ所(南部元次郎宅近く)でした。逃げ出すものもあって、捕まって連れ戻され、立花で殺されたものもあったそうです。カッケになって弱った者が出ても休ませなかったということです。
(西の里 高橋松三郎)

 タコ部屋からは、土工夫がよく逃げてきましたよ。家の物置に隠れていたこともありました。母はそんな土工夫をかくまってやり、ご飯を食べさせ、おにぎりまで持たせてやっていました。そんな土工夫はどうなったかなあと思います。何回かそんなことがありましたよ。
(西の里 高橋喜一郎)