苦笑いの尊徳像【その弐】第二十三話

52 ~  / 80ページ
 
 戦前のこと、山田村長は報徳教に熱心で、全部落に報徳社ができました。集まりには必ずその行事があったもんです。私の方では、共同の報奨金を積み立てて、困った人を助けることにしていました。戦争の混乱で、そんなことも忘れていたんですが、つい先だってそんな金が、千八百円あったことが分かったんです。それを施設へ寄付したわけです。
(西の里 佐々木市太郎)

 戦時中、西の里地区では、報徳金をつみ立て、毎月八日が定例日で集会をもっていました。農事実行組合では、共励事業を、婦人部では生活改善、青年は堆肥共励会(たいひきょうれいかい)などがありました。また婦人部では、こうじ醤油の醸造所へ原料の持込みなどがあり、生活と関わって、地道な活動がなされていました。(西の里小学校七十五周年記念誌)
 
 昭和十二年、音江別にも報徳社ができましたが、寄り合いは遅れて遅く始まる上に、長々と報徳訓を唱え、その話があって夜中までかかるのには疲れてしまいましたね。
(富ヶ岡 石橋豊次郎)

 昭和十年、東部小学校の校庭に、二宮金次郎の銅像が建てられ、次の年には西部小学校の校庭にも建てられています。二宮金次郎は、「勤勉、孝行、倹約」など少年の手本とされていたのです。金次郎は貧しいなかから、働きながら勉強したということで、その銅像は、短い着物を着て、背にはシバをせおって、本を読みながら歩いている姿でした。その銅像も、戦争がはげしくなった昭和十九年ころ、武器にするために運ばれていったのです。