明治三十八年(一九〇五)音江別の小池伝吉さんが、エアシアー種三頭を買ったのが、乳牛のはじまりです。そのころいたのは、赤牛といわれた和牛だったのです。大正七年(一九一八)、音江別地区の乳牛は五十頭ほどになり、音江別酪農組合ができました。しかしバターを作るところが近くにないために、江別のバター工場まで持ってゆかなければならなかったです。自分の家で飲んで、市街の人に配っても余るわけです。はじめ郵便局の逓送(ていそう)の人に頼んでいましたが、やがて自分たちで運んだのです。荷車に積み、カタカタ道をひいてゆくので、雨の降った後などは泥んこの道となり大変でした。荷車の次は、リヤカーでした。夜半に起きて、涼しいうちに行ったのです。泥んこ道のひどい場所は、牛乳缶を背負って中継ぎをしたりしました。そのうち馬車になりましたが、暑い日には、ガタガタ揺られていくうちに、牛乳が腐ったりしました。そんな苦労をして運んだ牛乳も、会社の都合で安く買われたり、買い取りの中止があったりで、全く不安定な状態でした。音江別地区が、自分たちの手でバター作りをはじめたのは、大正十年(一九二一)三月十日のことで、広島村バターつくり第一号となったのです。(『廣島村史』と小池光治さんの話から)