水車で精米、ほとんどが麦【その参】第八話

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 昔は、できた稲を白米にするまでが大変でした。稲はまず「千歯(せんば)」でこいで籾(もみ)にします。その籾(もみ)は粘土で作った大きな「臼(うす)」で摺(す)って玄米にします。籾殻(もみがら)を取るわけですね。玄米は木の「臼」に入れて、「杵(きね)」でつくと、つくごとにうすい皮がとれていって、だんだん白い米になるのですね。七分つき、五分つきなどがありました。この時に出る、うすい皮の粉が米糠(こめぬか)です。後には足踏み式の、米つき機もできました。
 水車での精米は、これらの労働からみると、大変速く楽なので、ずいぶん繁盛したものでした。しかし明治から大正にかけては、米よりは麦の方がずっと多かったのです。麦が主食だったのですね。広島はもちろん、長沼、野幌の方面から、馬ソリで一台に二十俵積んでやってきましたよ。秋から冬にかけてが一番忙しく、私一家は夜通しで働き続けたものです。一日中コットン、コットンという「キネ」の音が、響いていたもんです。精粉もしていましたが、ソバが主なものでした。くず米も粉にしました。精米のうすには、米は一俵、麦は二斗入れました。精米料は米一俵十銭、麦一俵十二銭から十五銭くらいだったと思います。米、麦のほかアワ、イナキビなどもありましたね。水車で製材もしていました。後には製材だけになったわけです。
(広島 大谷元恵)