タコ部屋の置き土産と先生の碑と【その参】第十話

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 明治三十五年(一九〇二)野村源治郎さんが音江別に入地した時は十二歳、「あたりは大木だらけで暗く、家なんかも見えなかった」と語っています。三十三年の音江別戸数八八戸三八七八人と村史にあります。「山仕事の人や炭焼きの人など出入りも多く、百二十世帯くらいあったのでないか」と沖中武雄さんは言います。音江別には明治二十五年、広島村で一番早い開業医の三上道春さんがいました。五町歩(五ヘクタール)も開墾した努力家といいますか、二十八年に自宅で音江別の子どものために教育所を開きました。先生は息子さんの順一さんです。三十三年村の分教場となり、順一先生はそのまま先生として、大正九年(一九二〇)亡くなられるまで、心をこめて教育に当られたのです。大正十一年、地区の人々は、「三上先生の碑」を建てその徳をしのぶことにしました。建設に協力した八十八名の名が刻まれています。いま分教場跡に会館が建っています。その隣に音江別神社がありますが、そのコンクリートの鳥居は、大正十四年、鉄道をつけるために入ったタコ部屋が寄附していったものです。コンクリートの芯にトロッコの線路が入っているのです。それは浜田義夫さんも見ていたそうです。鳥居には「奉納大正十四年八月二十九日建設」とあり、「菱田組配下宗像彦三」と刻んであります。北海道鉄道札幌線として、汽車が走ったのは翌・大正十五年八月のことでした。