建て人知らずの「みな女地蔵」【その参】第十五話

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 西の里の北海道リハビリーから五、六百メートルの道路ぞいに、建て人知らすの地蔵尊が立っていることは、一部の人には知られていました。西の里小学校六十五周年記念誌でも、第一ページに開拓地蔵として、写真入りで紹介されています。それによると、「明治十八年(一八八五)十二月十一日みな女」とだけ彫られています。小さな地蔵ですが、明治十八年といえば、広島村に和田郁次郎さんら十八戸が、はじめて中の沢に入地した次の年にあたります。西の里に開拓の人が入ったのは、明治二十八年いもり沢(現在の千歳線周辺)へ、数戸が入地したにはじまるといいます。それより十年以上前に、上野幌地方には札幌寄りに何人かの人が木炭を焼いていて、駄倉(だぐら)に木炭四俵を積んで、立花(たちばな)(上野幌ガード下あたり)から沢を通り、大曲から月寒を通り、札幌に出たというものです。赤牛を使って札幌での木炭一俵八銭ということです。ベコ道・ベコ沢などの名もあります。厚別へ出るには、大きな湿地があって出られなかったといいます。それらの人々とともに、広島寄りの方にも、秋田県から来た何戸かが、やはり木炭を焼いていた。その中の女性が(母か娘か)亡くなったものでしょう。遠く北国に来て亡くなった家族を悲しんで、札幌から持参した「みな女地蔵」は墓であったと、大谷義明さんは解説しています。それから百年の年月がたっていたのですね。