第十一話◇はっはっは~輪厚のむかし~

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高根舜治
 
原題   高根さんにきく(輪厚NO.〇〇五)
採話日  平成八年八月一八日
話者   高根舜治氏
採話者  赤坂洋子、荒木順子、竹田妃登美
編集者  吉田佐由美
採話場所 高根舜治氏宅
公開日  平成一五年四月一日
 
 

昭和20年代半ばの農作業風景
 

昭和21年5月24日輪厚青年団
 
 昭和二年に来たんだな。昭和二年の秋らしいよ。両親と三人でここへ来たんだ。その時は、二歳…満一歳か。大正一五年三月四日生まれだから。
 母が言うには、家財道具と一緒に馬車の上にロープで縛られて、横には牛がつながれていた。上輪厚部落の有志方々白石村横町まで迎えに来てくれたみたいだ。
 
 俺は長男で、下に妹が二人。下がね、一三歳違うんだわ。して次が一七歳違って。まっ、途中で早産したのもあるみたいだけどさ。俺との間はね。
 
 母親の話によると、東札幌にじいさんとばあさんがいたわけ。今で言う東札幌…昔の白石村横町だからね。俺だけ白石へ置いときたかったみたいだけど…。
 
 本家は、リンゴ園をやっていたんだけど、親父はリンゴを手伝いながら牛を飼っていたみたい。親父は三男になるのかな…本来は四男くらいになるんだけど、分家するということで、輪厚に知っている人があって、その人に土地を世話してもらったんでないかな
 
 ここに来た当初はね、半分くらいも、畑でなかったんだ。山だった。その半分くらいのうち、俺が子どもの頃に覚えているのは、手で木を切ったりね、人にやってもらったりして、拓くとそれなりに村から補助が出るんだな。そんなんで拓いた。それでも全部は拓かなかったんだけど。
 
 俺が小学生くらいの時は、牛と畑作だった。燕麦、紫花豆、大豆もあるし小豆もある…豆類ね。いろいろ作ってたね。
 お米は、まだ作ってない。お米は終戦後。
 
 戦前は、牛を飼えっていうのは、土地を肥やすためだからね。牛の糞をとって、その堆肥を畑に還元する。土地の為に牛を飼えって、北海道のお偉い人の命令だったわけさ。だから、みんな二頭か三頭持っていた。
 
 この辺の土地は、肥えてなかったんでないかな。だいたいね、土地の肥えとるっていう所はさ、川の流域なんだわ。川があってね、上から土が…昔は洪水やなんかで流れてきて、土の集まった所を沖積土ってね、黒土が深い所だと肥えてるけど、こういう所はどこからも流れてこないからね。
 
 その頃、獣医さんっていうのはね、ちょうどお医者さんと同じで町が置いてたのかな。広島東部くらいにいたんでないかな。
 こっちの方にはね、島松演習場の中に村田牧場っていって、やっぱり牛を二〇頭くらい飼っていた家があって、そこの息子さんが、農学校出て獣医資格を持っていたんです。何かあれば頼みに行って、来て診てもらった。
 
 だけど、種付は自分の家でやった。種牛は家にいたから。その時代は、今のような人工受精でないからね。雌牛引っ張ってくればいいから。それは、資格もなんもいらない。種牛の所にみんなが、集まってくるわけなんだ。
 
 牛がたくさんいる時は、北海道で牛を買う場合は道庁購買とか、樺太で酪農やる時には樺太購買とかってあって、今の輪厚の小学校の跡だったかな…その辺に、あんまりはっきりしないけど、ある場所へ牛を集めて、そこで道庁から来た人方が、三〇頭のうち一〇頭買うとか、五頭買うとかって言って買うわけ。だから、その日は一旦連れて帰るんだけど、牛を持って行くのは広島の駅か、江別の駅に持って行く。うちの親父なんかは、夜にずっと江別まで牛を引っ張って行った。
 
 札幌に牛を売った時には、こんなこともあった。
 親父に「少年倶楽部を買ってやるから、牛の尻叩きについて来い」って言われて一緒に行ったんだ。
 そのうち、ツキサップ(月寒)の坂、下りのとこに行ったらね、牛はすわって全然動かないんだ。親父はしょうがないから、「お前ここで番兵してろ。俺は、買った先に行って、受け渡してくるから」と、豊平まで行ったんだ。牛はすわったきりだった。車なんか、たまに通ったのかな。
 
 札幌まで行くのに、テクテクと歩くと四時間くらいかかったのかな。
 朝出てって、昼一時か二時の間に着いた。まあ、そんなに豊平川越えて、向こうに行く事なんてないんだ。だいたい、豊平のこっちで用足りたから。