[開拓の頃]

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 さて開拓に入っていきますけれども、まず木を倒して、とにかく一坪でも二坪でも開いて、そばを植えたんです。おやじは、そばで育ったようなもんだといつも言ってました。そばが一番手っ取り早くて、バラ蒔きだったそうです。一〇坪でも一〇〇坪でも開いたら、そばを蒔いたそうです。おやじの話では、そば開墾というそうですよ。そばを蒔くために開墾する、そば開墾から始まって、現在のような土地になっていったようです。
 とにかく木がたくさんあって、火を焚くにも薪なんかいらないんですから。倒した細かいのがたくさんあって。倒した木は、川の水も今のような状態でなく豊富ですから、全部川から流して運んだんですね、千歳川へ。材料にしたり、パルプの原料にしたりね。
 
 初めは開拓するために木を切っていたんですけれども、いいものは全部造材して送り出そうというんで、造材師が入ってきたようです。村史には、八〇人ぐらいと書いてありますが、おやじが言うには一二〇世帯ぐらいあったようです。定住世帯じゃなくて、臨時的に入ってくるでしょう、造材師になると。
 この間、高畠医院で亡くなった野村源次郎さんという方は、九四、五歳でしたが、私のおやじと同じ年なもんですから、生き証人のようでしたよ。いろんな苦労話もされてました。
 その方が、開拓当時、山田組という造材師がいたというんですよ。どこにも記録が残ってないんですが、唯一、野村源次郎さんが言ってるんですね。山田組がいて、造材をやっていたんだと。だから、南の里の神社周辺には、居酒屋、雑貨店兼居酒屋ですか…があった。土間があって上がりがまちがあって、畳が敷いてあってね。きこりが帰りがけに、そこに腰かけて、枡酒いっぱい飲んで帰ったって。買って帰って飲めばいいのに、そこに腰かけて飲んで帰るのが、働く人の楽しみだなんて、おやじは語ってましたがね。そこに店が発展したわけです。
 そんな状態で開かれまして、常住した世帯は五〇世帯ぐらいですか。現在もあまり変わりありませんね。
 
 明治の終わりから大正の初めぐらいには、炭焼きも盛んになったようです。最初は炭焼きなんてやらなかったんですよ。だんだん札幌の人口が増えてきて炭が必要になったんで、炭をやって馬橇で積んで札幌に持って行ったらしいです。これは、おやじも経験したことのようですよ。小学校を卒業していたとは言っても、今でいう小学校四年生ぐらい。一〇歳ぐらいの時に山の中に炭焼きに行って、えらいめにあった話をしていましたね。
 
 炭焼きがまは、私たちが子どもの頃にもありましたよ。炭のために木はほとんど切られましたから、今生えている木は、二回目、三回目の木なんです。