小学校の話を少ししますとね、おやじも私も同じ小学校に通いました。島松のゴルフ場の入り口の十字路の、東側の南かどに小学校があったんです。
津軽藩主の御典医だった三上さんという方が、用地を寄付して、寺小屋式みたいなものを作って、おやじたちのような子どもを集めて教えた。本当の教育をやったのは、三上さんの息子さんになってからですけどね。その頃は、簡易教育所って言葉を使っていたようです。私もそこに五年生まで通いました。単級複式というんですか…正式には。
面白いんですよ。当時は、先生一人ですから、奥さんが副校長さんみたいなものですからね。保母さんであり、副校長さんであるんです。先生一人で、六学級教えるんですからね。五年生と六年生は歴史、三年生、四年生は算数の自習、こっちは国語の自習、一年生は習字…といったぐあいです。こういう教育法で、よく覚えたもんだというぐらいですよ。先生がね研修会に行かれることが、年二回ぐらいあるんです。そうすると先生が留守ですから、奥さんが代理教員だ。資格ないんですけど、「ちゃんと勉強しなさいよ。勉強しなかったら言いつけるよ、お父さんお母さんに知らせる。」っていうんで、これがこわいからみんな勉強したのを覚えています。先生より奥さんの方がえらいんですよ。
昔はね、五・六年生が一年生の習字の先生なんですよ。私も一年生の習字を教えました。あと、みんな自習なんですが、学校風景はそんなもんでした。
当時は、家庭と先生が密着してました。先生は人格者で、みんなが尊敬してました。簡易教育所以外は公共施設がないんですから、そこが集会所であり新年会の場所でありコミュニケーションの場であったわけです。
授業が五時間で終わっても、子どもたちは帰らないんです。どうせ家には、おふくろもおやじもいないんですから、学校が一番いいんです。しかも、先生の奥さんが保母の役目をはたしてくれたんですよ。奥さんが中心になって、材料集めておやつ作ったりね。お店も近くにあったし、農家の子が多いので何でも集まります。いよいよになれば、きのこ採りに走ったり、そういう雰囲気の中で、私たちも自然に、お風呂の水をくんであげたりということもやりました。学校を中心とした美しい姿だったと、今になって思うんですけどね。