[土工部屋の話]

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 土工部屋の話もしておきましょう。俗にいうタコ部屋。小学校に通いながら観察した程度のことですが。
 鉄道が許可になったのは、大正九年だったと聞いています。(このへんの工事が)大正一四年の四月から始まって、大正一五年の八月に終わっているんですよ。鉄道をここにつけるための運動もやったらしいですよ。そして八月一五日には、各町村の駅で祝賀会ですよ。大変なもんでした。ヤグラ組んで、モチまきですよ。ヤグラの上に幕なんか張って、モチを俵につめてのぼって上でまいたんです。
 駅長さんなんていうと、村の三役の一人に入ったもんです。初代駅長はなんていったかな、忘れちゃったな。
 三番目の西沢さんは、覚えてるんだけどね。とにかく、当時は非常に文化施設で喜んだもんです。もう、本当に高速道路がついたより嬉しかったんじゃないですかね。たしか北海道鉄道株式会社という鉄道名でしたよ。三百何十万だかでできたとか。全く別で法人で国有林鉄道というのも、その頃あったんですけどね。
 
 北海道鉄道というのは、沼の端から苗穂までですよ。
 沼の端ったら、ご存じでしょうか?今でもありますよ。あそこが起点で、札幌は苗穂なんです。札幌駅は乗り降りできなかった。苗穂で降ろされたんです。
 大谷地に入って、だんだんだんだん曲がっていっているんです。東札幌に大きく曲がってるんです。だからスピード出ないんです。月寒っていうの…ツキサップって、月寒って駅があったんです。
 汽車賃は、高かったね。五五銭ですからね。当時の一日の出面賃ですよ。今でいうと、五〇〇〇円から六〇〇〇円ぐらいかな。
 
 その北海道鉄道の工事が大正一四年に始まってね、一年ちょっとでできたのは記憶あるんです。
 私、大正一二年が一年生だから、一四年というと四年生ですか。四年生の頃の記憶って案外残っているんですね。なぜあのタコ部屋に印象残したかというとね、きれいな娘さんがいたの。娘さんたって、小学生ですよ。そこの飯場の親方っていうんですか?宗像彦三っていうの覚えていますけどね、菱田組配下の宗像彦三さん。宗像さん、宗像さんってよく言っていた。その人のお嬢さん口がきけないんですよ。きれいな子だったけどね。当時は口のきけない子が通える学校はないし、手まね足まねで、私たちとちゃんと意味が通じた。それでね、その子と友達になったんで、その彦三さんの奥さんが非常に喜んで、もてなしてくれたわけ。
 だから、あの恐ろしいタコ部屋に出入りできた。でも私たちには、恐ろしいところじゃなくて、遊び場がひとつよけいにできたと思ってたぐらいです。ただね、この目で殴られるの見たのは悲惨だったね。逃亡して捕まって帰ってくるでしょう?やられているんです。これホントは子どもに見せちゃいかんのだけどもね。
 私たちは飯場と呼んでましたけど、北海道で最後のタコ部屋だと、周囲の大人たちが言っていたのを記憶しています。北海道鉄道が最後のタコ部屋だったって。
 
 場所は、今の音江別神社の所にある十字路になっておりますけどね、あの右の西の方に入りますと、島松ゴルフ場に行きますね。その反対に抜ける道路が神社の横にあります。そのすぐ横の、今は畑になっておりますけどね、そこに大きな商売をやっていたんです。そこに土工夫たちの寝るところを長く継ぎ足して、土工部屋に貸したんです。
 沢田コンクリートを過ぎると、音江別神社でしょう。神社の所に道路がありますね、それを越した所の左手の東側です。その向こうに、先ほど話した簡易教育所がありました。今は、菊地さんって方がいらっしゃるけど。あの菊地さんの屋敷が簡易教育所の跡なんです。
 
 私の聞いた範囲のタコ部屋にいた人は、進んで来た人と騙されて連れてこられた人もいましたね。前借でさ、東京の遊郭あたりでさんざんぱらやっちゃって、それで全部借金になっちゃって。抜き差しならないで連れてこられたという人もいました。しかも学生さんがいたりして、びっくりしたもんです。本当に騙されたんですね。どこの出身で、どういう事情で入ってきたかという細かい事については、全く判りませんけどね。
 
 何名ぐらいいたかは…このあいだから、思い出そうとしてるんですけど、判らないね。友達にも聞いているんですけどね、生き残っているヤツに、「おい、あそこに何人いたのか?」ってね。
 
 囚人が来るところではないんだそうです。監獄部屋とタコ部屋があるそうですけど。
 樺戸の収監所から、ほうぼう北海道の道路工事に使われたでしょう?それと全く違うんです。全くの菱田組という土木工事屋さんの募集で集まってきたものですから、囚人はひとりもおりません。見てるところ善良な人ばっかりですよ。
 
 夏は、裸足のようでしたね…足袋はいてたかな?足袋はいてたな。面倒くさいんで裸足の人もいるんだわ。ああいう連中にはね、いるんですよ。
 だけどね、あの棒頭ですか?これは、みな地下足袋はいてました。
 
 雨降りは仕事してなかったような気がしたね。土方殺すにゃ三日雨降りゃいいって、雨降りには出てなかったような気がしますけどね。
 
 あと覚えていることといったら、食事の姿ですね。おぼろげなんですけど。腰掛けはなかったような気がするんですよ。兵隊の演習に行ったところにある、昔の軍隊の廠舎(ショウシャ)というの御覧になったことありますか?同じような形で真ん中が土間で、そして両側に床が張ってあるのね。そして、畳なんかなかったような気がしますね。畳でないんですよ、ムシロだ。ムシロですよ。ムシロが敷いてあってね、そしてふとんが、使う時は伸ばすけどね、朝は丸くまるめて奥の頭の方へ置いてあったですね。あと、雨で仕事出来ないと、そこで休んでいたのは見ています。食事は座って食べていなかった。立ってたね。たまに弱った人は、その寝るところに腰掛けて食べているのは記憶あります。親方は全く別の部屋で普通の状態です。
 
 宗像彦三って親方はね、私よりずっと背の低いガッチリした人でしたね。なんか、柔道三段くらいの腕前だったと聞きましたけどね。奥さんがまた、すごい美人でね。その顔見ただけで、ほんとうに腹立ったのがおさまるようなタイプの人でしたね。それで娘さんは、不自由な体で手まね足まねで学校で勉強しているんですよ。手まね足まねで、僕らも教えるわけですよ。友達ですから。遊びに行ってオヤツご馳走になるのが、楽しみでよく行ったもんですがね。
 親方の他に、幹部は四、五人いました。別なところで暮らしていましたけどね。それから、寝ているところには必ず逃がさないように監視してました。
 
 朝は、起きれって言ったって起きれないもんだから、枕にしている丸太をハンマーでたたくわけよ。はじっこをね。そういうもんだったです。死んだらもうみんな穴掘って埋めてしまったり…。
 
 千歳線の森の中のどっか…島松あたり。広島の境から恵庭にむけて盛土ありますね?広島のあの島松側のあたりに埋められている人いるんじゃないのかな…。
 私んとこの住宅の西側になるところ沢だったんですけど、盛り土やるのが見えるんですよ。窓からモッコで、こうかついでね。そんなに沢山もいなかったと思うんだけど、特別注意人物がおるんですよ。逃亡癖があるやつ。オコシはね、夏のど真ん中には涼しくていいんだそうですけどね、あれ逃げる時には都合の悪いもんだそうですね。足にからみついて。それで、特別に要注意の人にはね、あのオコシをさせていた。おぼろげながら記憶にあるんですけどね。
 色はね、二つも三つも違っていたよ。ひとりひとり違っていたような気がするんですがね。全部じゃないんです。赤はまず印象に残っているんですけどね。黄色のはいていた人もいた気がするんですけどね。それが定かでないんです。家内にも聞いてみたんですが、「そんな飯場のあるとこに行ったことないわ。」って。それで、そこのラーメン屋の近くの人方にも聞いてみたんです、「飯場覗いてみた事あるか?」とね。年寄りの人いますから。でも、誰も見た人はいませんね。入れさせなかったって言っていましたよ。
 やっぱり僕らはね、その親方の娘さんと仲良くしているから、本当は入れちゃならんのであろうけども、結局自然とそこ通るから、見たんでないのかなって思います。
 作業をしている様子は、鉄道をつけるためにトロッコを二人でパッとはねて、トロをひっくり返す姿は見ています。それと同じ事を私は樺太に行って、軍の命令で飛行場作るのにやりました。
 二人くらいで押して、線路の上を歩きながら押してましたね。南の里飯場は作業の場所を決められていたようですね。広島に三ケ所あったんでしょう?私は四つ覚えているんですよ。恵庭と苫小牧に行く方へ行きますと、広島ちょっと過ぎて二叉路ありますね?一八号道路というんですか?恵庭の市街へ行くのと柏木に出る。あの角にも飯場があったの覚えているんですよ。そこにお店があったもんだから、その近くに飯場があったのね。これも覚えてます。
 あれはおそらく恵庭区域で、広島南の里飯場はおそらく広島の境からどっか音江別川くらいまでやって、音江別川からおそらく野幌原始林の中間くらいまで、そこの市街のがやって、下野幌のがそれから原始林の中をぬいたんじゃないかなと思うんですけどね。早かったですよ、一年ちょっとでやったんですから。夜も遅くまでやっていたのは記憶ありますがね。
 飯場は普通の民家です。板ばりの家でね、火の気なんてないんですよ。火を焚いているのは見なかったなあ。寒かったろうね…。棒頭がたき火しているのは見ています。棒頭はただ見ているだけだからね、そこで火を焚いていたのは見ていますけどね。小屋の中で火の気は見た覚えはありません。
 戸は厳重に、丈夫なものでこしらえてありましたね。逃げられないように。
 窓は小さかったわ。格子打ってあったな。トイレは絶対格子打ってあったですよ。一番逃げるのは、トイレだから。一般の所には、格子は打ってなかった気がするね。逃げりゃすぐ判るからね。民家を改造したもんだったから。民家っていっても相当長い家でしたね。トイレも別棟じゃなく、くっついてた。
 
 お風呂はありました。五右衛門だね。箱風呂のような気もしたんですがね、風呂入っていましたよ。
 床屋はどうやってしたものかな…それは記憶ありませんわ。髪がボウボウだったわけじゃないから、それくらいのことは、できたんじゃないですか?ハサミありゃやれるんだからね。そんなに醜い顔は、見た記憶ありませんね。ボウボウは見ないです。
 オコシのほかは、着物を着てましたね。
 私が小学校四年生当時は、写真見ると、服着てたのは先生の息子がひとりなんですよ。私なんかね、カスリの着物着て羽織まで着てね、ひも結んでちゃんとこうやって写っているんです。羽織着せられたんだから、まだいい方かな?私は五年生くらいから、服を買ってもらったの。嬉しかったですね。
 宗像彦三さんは、音江別神社に鳥居を一基寄付されたんですよ。結局ここにタコ部屋があったという証拠品を残した格好になったんですけどもね。寄付されたんです。一四年のたしか八月の二九日って書いてあるかな?記念碑には大正一四年八月って銘が入っているんですよ。菱田組配下 宗像彦三 大正一四年八月二九日。
 一四年の四月から工事をはじめて、鳥居を寄付したのが八月。工事が終わってからどこへ行かれたかは、知りません。
 
 鳥居を贈った経緯はね、聞いてないの。地域の人にお世話になったとか、ご迷惑かけたとか、何かしたいということで、ちょうど鳥居が木造でボロボロになっていたんでね、有志の人と話したんでないかなって思うんですが…。私のおばあちゃんがなかなかの世間師だったものだから、その話を聞いておけばよかったなと今さら悔いているんです。どういう経緯で寄付されたかね?お世話になったということでないかな…。
 地元の人も、いろいろ便宜はかったようですよ。野菜の供給もしたんじゃないかと思います。だから、よく聞くタコ部屋の雰囲気じゃなかったですよ。皆さんの交流もあるしね。新年会か何かやる時なんかもね、その菱田組の親方も一緒に、学校でやるんですからね。今だったらダメでしょうが、当時は学校しか集まるところがないんだから。そんな時は、タコ部屋の幹部なんかも一緒に集まって、一年半ばかりつき合いをしておったようですよ。だから、タコ部屋といってもまだ程度がいい方ですよ。
 宗像さんという人は、非常に温厚な人だったからね。しかし、ああいう親方っていうのは、なかなかいなかったようですよ。
 
 一時、鳥居の門柱が壊されて中の線路が見えたことがありましたね。修復しましたけど。ただの門柱じゃなくて、中にトロのレールをそのまま使ってるんです。ですからね、鳥居を建てたということは、僕はね、これ土工の供養だったような気がするんですよね。
 そう思いませんか…?