橋場ツイさんていう人が話していたことなんですよ。
ツイさんは、生きていれば九二年に八八歳でしたから、目で見ているかもしらんねえ…その頃のことね。
調べたらねえ、藤野さんがね、大正四年に橋場さんへ土地を売ってるんですね。
藤野さんは土地を売った後、大正一三年に樺太豊原郡豊北村へ転籍届出して住むまでは、どこにいたんかわからないんです。けども大正四年以降から一〇年以前はあんまり北の里から樺太には行ってねえんですわ。だから一三年に届け出したっちゅうから、一〇年頃に行ったと考えてるんです。
橋場さんが、四年にあそこを買って、向かい側にお家を建てて、買った用地を利用して水田なり溜め池にしたんだと思うんで、水田からお地蔵さんが出てきた話は、それ以前にあったことです。
ある日、藤野猪熊さんが夢を見たって。家の土地の沢か、田んぼか、うーん、地蔵さんが掘り出してくれって言ってるっていうような。
夢見たから行ってみたら、水田がこうブクブクしてた。そこに手を入れて掘ったら、二キロぐらいのお地蔵さんが出て来た。それでね、道端へ祠を作って、そこへ祀ったの。
お地蔵さんが出て来たっていう水田は、家の横にあった。今、埋めてしまってるけど、沢だったところを水田にしてただろうから、そこから出て来てるっちゅうこと。
そして、ずっとその出て来た二キロぐらいの小さなお地蔵さんを道端に祀ってた。お地蔵さんは、自分では何の地蔵だとは言わなかったと思うんですよ。
通る人が、やっぱり地蔵あると手を合わせて参るでしょ。したら、まあ、たまたま、妊婦さんが、安産のお祈りをしたら安産だったって言ったもんだから、安産の守り地蔵だなんてことになったんです。
それから、その江別道路が、その頃は砂利も敷いてないような道だったから、馬車が雨降りに通るとぬかるみ入って動かんから、御者が叩いたら噛み付かれて、噛み付かれた傷がもとで死んだんだという話もあって、その人の慰めにもっていう地蔵だっていうようなね。
勝手にそういう人たちやら、近所のものが意味をつけた地蔵なんですよ。安産やら交通安全やら。交通安全っていうのはね、ここらへんでよく事故起きるもんで、道警が違反取締りに、あの地蔵さんのあたりにひっこんで、ねずみとりやってたんだ。ちょうどカーブ切って、もう楽になるもんだからとばすわけさ。あの裏の沢川ぐらいまでは五〇キロ制限になってるのに、それをぶっとばすからすぐつかまるんです。
死亡事故はないけど、大きな事故もあったから。四車線になる前からねえ、ここの道とばしやすかったんだよ。二車線のときでもね、ここ追い抜きをよくやったの。やっと、街からぬけて楽になったとこだから、気も心も。
事故起きた後はね、新しい花がお地蔵さんのところに、どーんとくる。
私の子どもの頃は、もう常に御供えとか花があったね。しおれないうちに誰がたてるのか、あの頃はほんとに、昔の人は後生願いとかって、まあ、一生懸命に神仏を尊敬しとった人たちは、それやってたんだねえ。
だからもう、それこそ祈れば良くなるもんだと思って、妊娠したらお参りして、安産になろうとか考えとったんでないかと思うけど。
でもね、最初に水田から出てきてたお地蔵さんっていうのは、藤野さんが樺太へ行くときに持って行ったんだ。
この地域は早く開けたもんだからね、全面積開けても、あの頃は一戸分五町歩ぐらいでないと、農業専門だら生活してかれないのに、一〇〇戸ぐらいも住んでた時期あるんですわ。
そしたら一戸あたり、三町歩平均にもならないから、結局、どっかへ出ていってもらわんと困るようになってね。
十勝とか、樺太とか、ああいう方へ出てく。その中で、藤野さんも樺太を選んだんでないかな。その時にそのお地蔵さんを持って行ったらしい。
実は、その藤野さんの子孫だという人がいて、私がこのお地蔵さんのことを書いた本(1)を出してから、どこで見たのかしらんけど、訪ねてきたのさ。本を分けてくれって言って。
その人も樺太へは一緒に行ってたそうだけど、藤野さんはお地蔵さんは仏壇に置いてたそうだね。勾玉も置いてたそうだ。これも北の里に居ったときに、拾ってきたんだと言ってたということだけれど、お地蔵さんと勾玉が一緒のところから出たものかどうか…。
大正四年に橋場さんがこの土地を買ってから、藤野さんがお地蔵さんを持って行ってしまって、今まであった地蔵さんがなくなったから、みんながお参りしてたお地蔵さんがないんじゃ…、というんで橋場さんが今のお地蔵さんを置いたわけ。
その頃は、私はまだ生まれてないから詳しくわかってないんですけども。
橋場さんが建てた祠は、子どものときから見てるんです。今の橋場さんのアパート建ててる道路側に置いてあった。
自分の家の右側に堂を建てて、道路を四車線に切りかえる時移しちゃったんですね。
四車線にして、まだ一〇年はたってないね。八年ぐらい前かな。
橋場さんが、お地蔵さんを買ってすぐ置いたものか何年か後に置いたのかは、わからんね。
大きさも少し違ってたようだね。藤野さんが持ってた前のは、二キロぐらいあったそうですから。姿形はどうかなあ…そのあたりよくわからんねえ。
その頃、あんまりこういうことをしっかり調べる気ないもんだから、聞いたことなかったんです。持ってったお地蔵さんのことを、連れ合いのばあさんに聞いても、「やあ私よくわからない、どんなのか見たことない。」ってんだからね。
だから、形を似合わせて作ったもんかどうかは、わからない。でもだいたい地蔵ってああいう格好なんでないかと思うんだけど。藤野さんが持ってったのはどういう形のかね。それにしても、おそらく広島開拓以前に誰かいないと、そんな水田からなんて出てくるわけないですよね。
でも住んだ形跡もないんだよね、北の里では。
古くから居ったっていう人の話は、だいたい年代を数えてみたんだけど、全然合わないもね。
古くからいる家で、佐々木さんてあるけど、北の里へ入ったのは明治三〇年以降だと思うんだよね。法務局の所有地でね。
佐々木さんのところから古い墓石だかが出てきたって話も、確実な話じゃないし、そんなに早く来てるはずないんだ。
佐々木さんの元から居るっていう名前では、門之助さんていうのがいるけど、明治三〇年に名前でてきてるし、それまでないんだわ。
佐々木さんのおじさんも亡くなってるし、長男の市太郎さんの話と、北の里に居る弟の話が合わないのさ。
橋場のばあさんも何も言わなかったね。だから、話は本当にわからんことばっかり。
昔は忙しくて、そんな話聞いてるひまもなかったもんね。
関心もなかったからね、調べる気もなかったし、その頃その気だったら、よく聞いとくんだったけどね。
今はお祀りも全然してないし、橋場さんも今の代は関心ないけど、まあ、ずっとあるもの捨てることもないから置いてあるだけで…。
でも、ばあさんなどは、ときどき花立てたりはしてるのかもしれないけどもね。なんか裏の方に花あったしね。
近所や道行く人も注目しないしね、今時分。なにせ、車だからね。
いわれでもつければ復帰するんだけど、なかなかね。
注
(1)「郷土史 北の里の歩み」平成八年九月 発行