[馬の香典]

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 当時馬はね、病気で死んだ馬は別としても、怪我して死んだ馬というのは、お肉を分けあって食べましたね。みんなで手伝って…ま、慰めにもなるし。死んだらそれこそ、肉でも食べてくれる人が居るんだったら売るけど、そうでないと捨ててしまうか埋めるだけのようになってしまう。
 そういうんでね、手伝いに行く人は申し合わせて、当時のお金で一円か五〇銭か決めてね。馬は一〇円するもんでも、まあ、一〇円じゃ買えないけど。まあ、三〇円ぐらいしたとしても一円ずつの人が一〇人居ってくれると、三分の一助かるからね。
 結局、馬の香典ていうことね。
 
 その馬の香典をね、交際簿っちゅうのに付けとったんだわ。まだ家に残っとるんだ。
 親父は、あんまりよう字を書かんもんだからね、言われたまま私が子どものころから書いたものだけど。馬の香典って、近所の人がお金を包んできてくれるの。
 
 カイホウ号っていう馬。これは昭和二三年八月一四日に死んだんだな。総額なんぼだ…二三年なら、一〇〇〇円台になったかな。昭和二〇何年台で、香典ったって三〇〇円か五〇〇円の時代よ、普通の大人が死んでも。
 
 えーとね昭和二〇年終戦の時、八重桜っていう馬が死んだのね。その時は一番多い人で二〇円なの。で、総計一一三円。ということは、当時、馬は二、三〇〇円したね、おそらく正馬は。見舞いに一一三円ももらってるんなら、見舞いだけじゃ買えなかったんだから。
 
 昭和二八年の高校出の初任給がね、六七〇〇円かな、六〇〇〇。二三年の人なら、三三〇〇円だ。同じ年のね結婚式のお祝いが、一〇〇円とか二〇〇円とか。二三年ぐらいだったら、このぐらいだったな。
 
 なんで馬が死んだかってね、この死んだ馬は脱獄したんだな。
 馬屋の出入り口はね、穴あけてせん挿すのもあるし、木でひっこんでカタッと止めるのもある。利口な馬はね、自分の口でこうやって押し出して開いちゃうわけさ。
 それから、ガスがたまって胃が破れて死んだのもいるさ。馬の餌箱が、どうしても外側に置いてあるわね。そこにえん麦でもとうきびでも、普通は、藁か何か乾燥もの食わしてたのに、それを足して食べらしてるわけさ。そうすっと食べ過ぎちゃって腹破れちゃう。 
 ちょうど戦争中で優良軍馬を出す、優良牝馬って母体の馬ね、これの表彰で、あの頃、千歳・恵庭・広島って三村で表彰された馬なんだけど、それが、腹破れて死んだんだ。
 
 親父が盛んに餌やって、太らしとった馬だからね。
 獣医がね、その頃広島にいなかったのかもしらんね。なんか事故あるとあの厚別の獣医頼むんだけど、あの頃電話もないでしょ?自転車かなんかで、呼びにいくの。
 
 家で行けんかったから、隣の人が時間あったから呼びに行ってくれたんだけど、来るまでに破れちゃったの。
 昔、伯楽っていうガス抜きで針を打つ技術があって、刺し場所があるわけ。
 獣医も年になったら、助手みたいのおいとくわけね。同じ百姓やっとっても、上手なもんに「ガスってわかったらここ刺せ。」っていうくらい。
 そうしないと、一時間ぐらいはどうにかなるかもしらんけどね。長い間たつと、だんだん膨れてきて駄目だ。
 子っこ馬では、崖から飛び降りて死んだ馬もおるっちゅう。結局、足折ったら使いもんにならんから、可哀想だけど屠殺場いって殺しちゃうのね。
 あと、家では川へ落として死んだのもいる。杭打って綱つけてね、ある程度の広さの草を食わしとくわけです。するとそばに小川があるとこでやったもんだから、小川に落ちちゃったのさ。くくってあるもんだから、そこから動かれないしょ。落ち方が悪かったのね。立ったまんま落ちればなんてことないのさ。だけど、立つだけの幅のないとこだから、そのまま水飲んでしまって。その辺では作業もなんもしてなかったから、人がいなかったもんだから、溺れて死ぬまでわからなかったこともあった。
 
 馬は、やっぱり農機具がわりに使うために置いとるんだからね。
 なんか、元気がないとか、ま、病気なんだろね、そういうのはね。で、仕事も満足にせんかったら、馬喰さんに、「馬を買い換えたいから、いい馬世話してくれ。」というようなこといって、取り替えちゃうわけさ。
 正直な馬喰さんじゃ儲からんから、騙すんだね。いい加減に太らしてかっこよくしてきたり、じゃめ馬つかまされたり。
 
 よく馬で、足首に水たまって足の爪の上の肉んとこ腫れてるのがいたね。あれはへもって言ったね。これも人間でいう血圧の上がるちゅうみたいなもんでね、太らしすぎて運動不足やるとなるの。
 あと、やっぱり、餌食えん馬はよく働かんねえ。だから使い物にならんから、すぐね、たたき値でどっかへ出しちゃうのね。それから、だいたいつぶしちゃうね。