明治時代、大正時代、昭和に入ってからのお葬式の話でもするかい?そんなに変わりはないと思うんだが…。
大体、講組っちゅうのを作っていたね…お講さんて言われてたか。
あれは、浄土真宗の信者が作ったものらしいけどね。北陸の人が多いから、宗派でない人も仲間へ入らないと、冠婚葬祭のある時に手伝い行くのに、みんな入らないとね。
ふたつあったから、どっちかへ入ってた。
講組は上(かみ)と下(しも)に分かれてたね。
最初は、川を境にしようとしてたのさ。江別側は下、共栄側は上っていうわけさ。したら、本家と分家が分かれる家が出るわけさ。やっぱり、親とおんなじとこ入りたいんだわね。冠婚葬祭で、そっちの講中でないから俺は知らんというといかんから、親のおる方へね。だから、上下に分けても、むこうに本家があるとそっちへ入ったり、仲の良い友達だとかそういうのがどっちかにくっついて入ったりしてたね。
棺小屋っていうのは、あの神輿のようなものだけどね、棺をのせて担いでいく。その、棺小屋っていうの作ったんです。今の佐々木さんとこ。して、葬式があると、講中のものがみんな手伝って。それがまた、巧者な人がいてね。棺から何からみんな作るのね。花でも、あの材料だけ買って来ると、木に巻いたり切って作ったりね。
そうやるから経費っていっても、葬式に関してはその材料代ぐらい。食べ物も持ち寄るのね。農家だから食べる物はあるから。町の者も親戚に入るからって、お菓子とか買うぐらい。ほとんど、金を使わないような葬式。
講中は、うちらは上だったね。
女の人が食事の頭をやっていた。本家なら姑おるけど、分家にはいない。けど、やっぱり、女の頭みたいなのがおるんだね。その人が采配ふるって、食べ物やらいろいろな中のことやっていた。
お葬式のご馳走は精進料理でね、魚や肉使っちゃ駄目で、農家で取れるもんだから大根やゴボウなんかをいろんな食べ方で作ったりね。買って来るものったら、豆腐と揚げぐらいのもんでなかったかな。
お豆腐屋さんは二戸ぐらいあったな。
浜田百貨店の前の社長のところと、あと大谷さんがお醤油屋さん。
それから、外にも顔のきくような人を葬儀委員長にしてた。あの頃は葬儀委員長っていったかどうか?それから大工の上手な人とかね、いろいろいるのさ。だから毎回、だんだん上手になる。
棺作るんでも変な板だら鉋かけづらいから、用意していなくて、ろくな材料持ってないと、講中の中のある人が出したりすることになる。迷惑かけるから、大体その家のものでやれっていうことでね。いつ死ぬかわからんから、棺桶にする板は一人・二人分は常時そろえてた。
それから薪も。今度ストーブになったけど、共栄の火葬場は二尺薪の投げ込みなんだ。短いんじゃうまくないから、燃料に二尺薪も置いとけっちゅうの。薪と板は常に備えておくこと。お互いに、そういう決めつくってね。
火葬場も墓地も、共栄にあった。
調査はしてないんだけども、屋敷地に墓のあったところもあった。自分の土地の、開いていない山の中に墓建ててた。
昭和…終戦後まであったなあの墓は。昭和三〇年頃まであったかな?あれはどうしたのかな?