[軍隊にいた頃]

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 生まれは函館。それで海軍に入ってね。それからずっと本州におったけども、どういう運命か、また北海道に戻ったんです。
 
 特攻隊では、私が分隊長。海軍では分隊長っていうのしかないんです。隊長っていうのはないんです。
 飛行機をやりたいって志願したね、きっかけね…。函館におってね、その頃は飛行機などは、日本にほとんどなかったですからね。海が好きでね。生まれたのが海岸ですからね、それで、泳ぎも好きで。泳ぎは好きだから上手い方だったね。それで海軍に志願したら、海兵団に入ってね。海兵団で六ケ月教育受けるんです。
 そして軍艦に配属になるんだけど、その海兵団でね、どういう間違いか成績が一番になったんです。私の同期はね五六〇名いて、みんないい成績取れたっていってたんですよ。ところが卒業の三日ほど前に内々に通知があったんだけども、卒業の時にね、海軍大尉が来ましてね、卒業生に対して「上出松太郎以下五六〇名、卒業を命ずる」と、これだけなんです。もっとも五六〇名の名前をいちいち呼んでも大変だから、「上出松太郎以下五六〇名、卒業を命ずる」だったんでしょうけども。
 それは、上出松太郎が成績一番だっていうことなんですよ。本当にね、この成績なんていうのは間違うもんですよ。ちょっとしたものでね。
 
 次は山下で航空隊に入った。後方機を機械で撃つ練習。海軍は学生っていわないんです。練習生っていうんです。
 当時、飛行機は一番危険なものとされていましたから、飛行機に乗ると勤務年数を延ばしてくれるんです。軍人は一一ケ年勤めると、恩給がつくんです。ところが加算されて一年が二年になるんです。戦争に行くと三倍になるんですね。一年戦争に行くと三年勤めたことになるんです。それで、飛行機に乗ってもね、一年勤めると二年勤めたことになるけれども、「俺、恩給もいらん。どうせ早く死ぬから、恩給もいらない」「そうか。それじゃ上出、お前の乗った分を俺にくれないか」「ああ、やるよ」という具合に、自分の名前を消しゴムで消して、中曽根とかなんとかって書いたり。下士官になれば、その加算つければ一一年勤務は、六~七年でつきますからね。下士官にならなくても、加算つけて兵でも恩給つくやつあります。けれども、「恩給はいらない」という調子でした。