ところが、海軍満期除隊になって松島へ。ちょうどその時に、松島で遊覧飛行始めるって人が出て来たんです。吉田栄っていう人。海軍を一年位前に出た人だったの。それで石川泰三さんって人と佐藤駒吉さんていう人と私と三人で、そこで働くようにしたんです。ところが、吉田さんがね、本当は大変なずるい人だったんですけどね、それ知らなかったんです。石川さんも佐藤さんも、みんな私と同じような気質で欲がない方で。
吉田さんは最初に、微風飛行艇っていう大きな飛行艇で、普通は七五〇馬力で飛ぶんですけど、それに二〇〇馬力の小さなエンジンつけてね、飛ばないんだけども、そこに人を沢山乗せて遊覧船として走らせるのを始めました。初めて飛行艇で三〇人位お客さん乗せて走ったのが、大正一四年。
なぜ吉田さんが、それを始めたかっていうと、航空局が民間飛行をどんどん奨励しようっていうんでね、飛行機の免許持っているものがおると、一台普通なら三~四万円かかるところを、一〇〇円位の安い値段で走らせてもらえるからです。一番いい話ですよね。それで金儲けしようと思ってかかったんです。
「客を乗せて走って初めて収入があるから、それからみんなの給料払うから、それまで給料待っててくれ」と言われて、みんな欲がないんで、「ああ、いいよ、いいよ」って。
仕事の方が面白いんですからね。それで、飛行艇でやってるうちに、遊覧船で平坦なとこ走るように改造するんですからね。改造っていうのが、やっかいなものなんですね。そして、なかなか上手くいかない。失敗するうちに段々考えたんですね。「これはとても儲かるどころでない。損するぞ」って。それから三ケ月位経ってね、試験飛行のちょっとした事故があったとき、吉田さんがね、こっそり逃げてしまったんです。
行方くらましちゃって。私たち三人と岩田さんって人が、高木さんという家へ下宿してたんですが、下宿代も高木さんに「人を乗せるようになったら払う」と言って、やっぱりためとったらしいです。
「三ケ月以上も下宿代ひとっつも貰ってないんだ」と高木さんが言うわけです。「あんた方出てってくれ。下宿代くれって言いたいけども、吉田さんから頼まれたから、それは言わないから、金は払わんでもいいから出てってくれ」と。
わしも海軍を出て、いくらか金はあったけど、三ケ月の間に使ってしまったし、あとの二人もね、最初は金持っとっただろうけど、使ってしまってほとんどなくなったらしいんです。
石川さんはね、東京に自分の生家があるんですがね、東京に早速手紙やってね、金を送ってもらったんですね。それで、「私は東京に帰るよ」と汽車に乗って、帰っちゃったんです。それで、あとに残ったのが私と佐藤さんです。
「どうしよう…」と言っていたら佐藤さんがね、遊覧船の切符を売るために行った事のある大宮司雅之輔さんていう、松島では一番の有力者だった人のとこへ行って頼むよりしょうがないと言い出した。その人に会って、二人で一生懸命頼めばいいだろうということで、二人で遊覧船のところへ行って、「さて、乗船券買おう」と思ってね、財布を出したがね、足りないわけ。買えそうもないと思ったが、二人分合わしたら一枚買えるんですよ。でも二枚は買えない。だから「佐藤さん、あんた乗ってきなさい」と言った。佐藤さんは、「そしたら、あんた残るのかい。あんた一人じゃ心細くて駄目だよ」と。「いや、私は泳いでいくから」と言うと、「ああ、そうかね」と。私が泳ぎが上手いことは佐藤さん知ってるわけですよ。
私が水泳選手で、それからわずかな期間だけども水泳教室をやったこともあるわけ。それだから、佐藤さんもなんも心配しなかった。ところが、東京まで泳いだ時は天気が良かったのに、突然ね風が吹いてきたんです。それでね、波が逆巻きだしたの。
佐藤さんもびっくりしてね、船長に、「友達が泳いでるから揚げてくれないか」と言ってくれた。船長も波を見ながら、なんとか揚げようとしてくれていたらしい。
私は遊覧船を見ていたけども、遊覧船はそのままずっと松島の方へ過ぎ去って行ったんです。「ああ、佐藤さん乗って向こうへ行ったな」と思っていた。
それから風が激しくなって、波が逆巻いてきた。どんなに波が逆巻くのは構わんけども、水温が下がってきた。海の表面は温かくても、海っていうのは下の方へ行くと段々温度下がるんですよ。泳いでいて一番恐ろしいのは、水温が下がることなんですよ。風で荒れるよりも何よりも恐ろしいのは水温が低くなること。海難で助かってる人方は大抵、服をたくさん着てますね。それで助かってるんです。
そのときも水温が下がってきて、心臓あたりが痛くなってきたんです。手も冷たくなるから、手首も痛くなるし。
「これは死ぬかもしらんぞ」と思いました。「ここで死んだならば、佐藤さんが困るだろうな。どうするかなぁ、金は持ってないし。上出がこないから探さなきゃならんて探すんでないか。いや、それよりも、溺死したくないな」と思ってました。
仙台に河北新報っていうのがあるんですが、そこに、もしも乗船券買えなくて泳いで溺死したって出たら、霞ケ浦航空隊も近いから、霞ケ浦航空隊の昔の戦友が記事を見て、「上出が溺死したか。あんな泳ぎが出来るやつが溺死したか」と思うだろう。死ぬのはしょうがない。神様が私の命を決めてるんだから、今日ここで死ぬように決まってる命を助けてくれ、延ばしてくれってことは神様にお願い出来ないと思った。だけども、溺死というのはどうしても困る。海軍の水泳選手だったこともある、水泳教師もしたことある、海軍には俺の教え子もおるはずだ、溺死だけは避けたい。
それで、「神様、どうか心臓を守って下さい。心臓だけ守ってくだされば、私は必ず海岸へ泳ぎ着くから。海岸に泳いで、陸地へあがった時に心臓は止まっていいから、どうか、あの陸地へたどり着くまで心臓を守って下さい。必ず俺、泳ぎます」と祈りました。
今の歳でいったら二五歳。その時の歳で二七歳の時ですかね。
その後、急にね私の体が流され始めたんですよ。それが非常に早いんです。私は泳ぐのが普通の人より早いけどもね、私の泳ぐよりも更に三倍から四倍早い。ほとんど流されるんです。普通の人なら気づかんかもしらんけども、潮流に流されてると、すぐ分かったね。
それが今でも不思議なんだけどもね、流されている方角が私が目指してた方と一分一厘狂わないで、私が目指す目的地に向かって真っ直ぐ流されるんです。よっぽど上手く潮流に乗ったんでしょうね。
それで、あがってみると、佐藤さんが心配してベンチに腰掛けてね、海の方見てる。私がベンチに行ってね、「佐藤さん」って肩叩いたら、ひょっと振り向いて、振り向いたと思ったら顔を真っ青にしてブルブル震え出したんだ。「佐藤さん、どうしたかね」って言ったら、死んだと思ってたらしく、「上出さん許してくれ」って言う。幽霊だと思ったらしい。
その後、その話聞いた漁師の人がね、「よく泳いできた」って言ってた。「いやぁ、ちょうど潮流に流されて」って答えたら、「いや、そんな潮はない。だから、よく泳いできた」と言うわけ。それで、水泳の天下の名人だってことになるんです。「そうでないんだ。流されてきたんだ」と言っても謙遜してそう言ったと思われたのか。
月の引力で起きる潮は漁師ももちろん知ってます。でも、あれから五三~五四年過ぎてますけども、やっとこの頃、漁師も知らない潮流があるってことが分かったんです。月の引力で起きる潮流の他に、風の力によって起きる潮流があるっていうことが。
それはね、北海道の内浦湾にもおきますし、青森県の陸奥湾にも風による潮流がね、何年かに一回、あるいは一年に一回か二回かね。漁師の知らない特殊な流れが起きるんですよ。その流れは非常に早いっていうんです。
風によって起きる潮流っていうのは、漁師もそういう時には海も荒れるし、漁に出ないから漁師も分かんないんです。だから、漁師の知らない潮流が起きるんだと。私が言っていることは間違いないということは、それから五〇何年か過ぎて初めて分かるんだけども。
漁師の知らない潮流に乗ってたために、本当は流されたのに、私が水泳の天下の名人にさせてもらった。
私にはね、よく偶然的なことが起こるんですよね。