[北海タイムス社の頃]

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 昭和八年ですがね、北海タイムスにおった頃です。今の道新ですか。
 天塩から札幌に飛行終わって帰る途中なんですけど、ちょうど天売、焼尻の島の辺りで、オイルがエンジンにいく潤滑油のパイプの中で、ガソリンが燃えて爆発して、エンジンを動かす機械が止まったことがありました。
 その頃の飛行機ですからね、計器っていうのはほとんどなくて、原始的な油圧計なんです。その油圧計がね、ポッポッと下がりっきりになっちゃったんです。「あら、油圧計が変になったぞ」と、あたりを見たところが、座席の下を油が流れていくんです。エンジンにいく潤滑油のパイプがね、爆発でぽっきり折れてしまったんです。
 それでね、もう一滴もエンジンには潤滑油がいかないです。ポンプは動いてるんだけども、全部下へ流れてしまうんです。そうなるとね、普通は一分間持たないです。一分間持たないでね、エンジンが焼けて止まってしまう。
 
 昭和八年でね。結婚してからいくらもたってないですね、四年くらいか。長男が一人だけ、数えで三歳ですから、今でいったら一歳の時ですね。
 今のように母子家庭の制度がなかったし、今ならば母子家庭として非常に厚く社会から保護されるけど。当時は母子家庭の生活っていうのは非常に苦しかったです。
 もうこれはエンジンがすぐ止まる。天気がいいんならドボンといったりしても、すぐ飛び出せば泳ぎは心配ないけど、その日は風が強くて、下を見ると海面がもう真っ白なんです。滝のようなんです。とても泳げる状態ではないんです。故障の起きる前から、「いやぁ、これはひどいなぁ。これなら、不時着したらとても泳げない」と思ってたのに、止まったんですからね。
 「あ、これはもう絶対死ぬんだ。恐らく行方不明になるだろう。行方不明っていうのは家内も困るだろうな、死ぬよりも困るかもしらん。迷惑かけてすまない。家内は、これからどうして生活してくだろうか。なんとか少しでも安らかに世の中送れるように」
 あの時はそんな気持ちでした。忘れられないですね。松島で祈った時にも涙がこぼれたけれども、それ以上ですね。
 
 なんとか家内たちの生活が少しでも楽になるように、神様にお願いしたい。どうせ死ぬんだから、もう飛行機は進まんでもいいけど、少しでも時間が欲しい。プロペラの回転をうんと緩めたし、少しでも浮かんで欲しいんだ。神様にお願いする時間だけは欲しいと思って、エンジンの回転をいっぱい絞ってフラフラに飛びながら願いました。一分でも一秒でも時間が欲しかった。
 
 ところが、プロペラが神様にお願いし終わってもまだ回ってるんです。もう、十分に神様に自分の全力を込めてお願いしたので、もう止まってもいいんだけども、回ってるんです。「あ、これなら、あるいは行方不明にならんで済むかもしれんぞ」と思いました。プロペラは浜益まで行ってもまだ回ってる。「ああ、これならもう飛行機も壊れないで済む」
 それで、浜益の海岸の砂地に着陸したんです。飛行機も無事でしたけどね、降りて見たら、エンジンはすっかり色が変わってるんです。
 とにかくあれは、私を不憫と思って神様がエンジンを回してくれたんだ。そういうことにしておこう。しかし、ずっといつも頭にあるんです。どうして回ったんだろうと。
 
 私はね、家内が助けてくれたんだとも思った。家内は自分が飛行の邪魔になったらいかんと思って、夜眠ったって子どもが泣き出すとね、すぐ子供を抱いて外へ出て、子供泣き止んでからそっと家へ入るような家内なんです。飛行兵で寝不足だったら大変だと。それから、私が二晩くらい全然もう歩けないような非常に大きな故障をして、怪我をしたことあるんですけど、その時も二日二晩全然寝ないで看病したんです。そういう家内だから、家内の愛情。いや、むしろ、私の方が家内に対しての愛情かも知らんけども。その愛情が救ったんだとも考えた。
 
 それから、よくよく考えるとあのエンジンだからできたのかもしれません。飛行機も戦闘機なんです。昔のフランスの戦闘機でね、非常に機体も軽いんです。機体が非常に軽いってことは、エンジンが特殊であるということだからね、いっぱいエンジン絞った場合には、エンジンを焼かずに、プロペラ回して行ける。普通に回したらいかんけど、いっぱい絞ったから飛べた。そういうこともあるかもしれないけども、これも不思議ですね。
 果たして神様がエンジンを回してくれたか、それとも、そういう特殊なエンジンだったか。そんなふうに命拾いしたことが、一四~一五回ありますよ。