[ひろしまに来て]

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 たくさん命拾いしている私ですけれども、なんといっても悪人ですからね。日本で一番の罪人です。
 第一ね、終戦の時で特攻隊の教官だけども。特攻隊の教官だけどもね、ところが、自分は敵艦に爆弾持って、突っ込む役目でないんですよ。自分は後に残るんですからね。もう最大の卑怯者です。その前はね霞ケ浦航空隊でグライダー部隊の教官。教えるのがね予科連です。まだ一人前の大人になっていないですよ。
 海軍でね自慢の予科連の訓練は、なんていっていいか言葉で表せないくらいです。非常に厳しい。そしてまた、無茶であってね。しかし、見ていて実に華麗です。華麗なくらいね、ピシッピシッと動作なんかね。しかし、私がそこで非常に苦しんだ事はね、あまりにも、ああしろこうしろと決められた通りにね、機械のように動かされるんで、自分でものを考えて、これはこうした方がいいんだっていうところが一つもないんです。そういう稽古されてないんですから。
 「これを直してやらなければいかん」と、非常に苦労をしたけどね。
 
 「上出会」っていうのがあるんです。
 私は教官をしたんだけどね、教わっているものはみんな、戦争に行くための訓練だった。だから、私はね、鬼な筈ですよ。教官が一〇人位おりましたけどもね。私だけがね、こうして毎年一回招待されるんです。いや、初め断ったんです。そんな資格ないからって。招待されるから一〇年位前にやっと承諾したところがね、それから毎年。
 「上出会」って会作るとは知らなかったけど。毎年毎年、教え子たちと一緒に会える。 
 戦争に負けてからはね、もう過去を一切無くして新しく生まれ変わりたいと思って、ここ入ったんですよ。
 ツテも何もなく。ただ、順位を決める場合にはね、元軍人とかね、樺太、満州の引揚者。こういうのが順位が先なんです。そんな具合で、ここへ入る時も一六〇〇人が札幌の市役所へ集まった。その内から六二人かが決まったんですよ。それでここには六名。ところが、六名決まったけど、いよいよ入る時には、私ひとりっきり。あとみんなここへ来てから駄目だって止めたらしいですよ。そういう人は本当に入りたいっていうんでないんですね。私は、もうどこでもいいから入りたいと思っていた。
 家内がね、ここを希望したんです。
 それがね、戦時中札幌におっても道路がね、道路ほんの二間くらいかな。今でいったら、三mか四mくらい。それくらいの地面をみんな割り当ててね、みんな各家庭が道路を掘ってね、道路に野菜を植えて。そうやったもんです。それがね、家内は面白かったって。 
 本当に二坪か三坪ですからね、面白いんです。ところが、いざ農業となったら、そんなもんでないんだけども。家内がね、もう職も失ったし、農業やりませんかって言うから。そんなら、お前がそういう気持ちなら、なおさらいいと。それじゃ農業やろうと、ここ入ったんです。ところが、水害。水害。また水害。
 こういう悪いことばっかりした人間がね、いいことは一つもしてないけども。世の中の大勢の人からね、ずっと恵みを受けてるし。二五年のは一番災害ひどかったけども。あの頃、テレビないからラジオですよね。ラジオで、中の沢が水害で困っていると。そうやって放送されるとね、役場に全道から救援物資が来るんです。村の人達も助けてくれる。そうしたことも、大抵の人は、もう忘れてるらしいですね、でも私は忘れないです。
 ずっと、いつも考えてる。まぁ、それは一つの例だけど、ずっとね、それから何十年間も広島の町の人全部が私等を助けてくれて、色々力づけてくれる。そのために、こうしてやっておれるんですよね。それに対して、自分はなにひとつ恩返ししてないんだね。