大正五年、辰年の、八月一八日生まれの七九才。
温泉もいいですけど、あの、この周りの景色が…。自然の森林浴でね。
私の生まれは、栗沢というところ。
父は造材師。(材木商)それと芝居小屋を営業していて、わがままに育ったんですよ。
でもね、私の七才の時につぶれたんです。
不景気です、東京の震災のあとの。
知人を頼って長沼というところに移ってきて、すぐに母が亡くなって。心臓でね。私が小学校五年生の時です。
そして、昭和二年、私が小学校六年生のとき、東京へやられたんです。
残ったのは、父と姉と妹と、生まれたばかりの赤ちゃん。だからとんでもないんです。
そしてね、東京にね、おじが三人いたんですよ。長男が貿易商だったの。そしてね、次男が銀行に勤めていたんですよ。三男が法政大学のラグビー部の…。しっかりして、いいところでやってたんですけど、私が向こうに行ってから、また、つぶれたんです。
ある日ね、おじの知人が訪れて、今でいう破産ですね。あの、差し押さえ。
その時は、そのまま帰って。十日たったら、市役所の人たちがみんな来て。今度、差し押さえ。本当に、あの、何というんですか。家具の裏に札を貼っていって、家はそんなことありませんからね。驚いちゃってね。お友達が、青山の三丁目の、あの下町にいたんです。開業医でね。飛んで行ったんです。おじさんに説明をしたら、「イクちゃん、上から下まで貼られた?」って言うから、「横に貼っていった。食堂のね、テーブルもみんな貼った」って言ったらね、「おばあちゃんが、あのタンスの中のものを質に入れるから大丈夫だ」って。
それからです。おじさんが言ったように、タンスの引出しから着物を持って、気位高い祖母が、質屋さんに私を連れて行ったんです。でも、そのことがね、私がどうにか世の中に立てるもとになったんです。それまでは、わがままでしょうがなかったんですって。それで、辰年でしょう?
それで、二月の初めに帰ってきたんです。雪の北海道に。
父は、いろんな人と親しいもんですから。
カノウっていう人は、父が世話したかどうか判りませんけど、小学校の先生から校長になって、栗山で女学校を作って、ここへ来なさいって。
試験も無かったんですよ、その当時は。田舎の学校。
でもね、通うのが大変で。自転車でどの位あるんでしょうね。大変でした。朝早く出て、夜は暗くなる頃帰る。大変なの、砂利道でしょ。半年で行かなくなったんです。
結婚したのは、二三才ですね。数えの。
千歳に信田温泉ってあるんですよ。そこと、そのお隣りに松原っていう温泉と、全く水質が違う二つの温泉があるんです。
私、ちょっと弱くなって、父が、「温泉に入りながら治しなさい」って、農家に私の下宿を頼んでね。その当時、主人が駐在所のお巡りさん。そしてね、結婚したの。
結婚するかって話になってね、父のところに行ったら、「やらない」と言ったそうです。
だいたい父は警察が嫌いなの。政友会ですから、昔の。
賛成してくれないから、友達が「逃げろ」って言いましたから…。
南幌の鶴沼って、沼の中にお家建ててあったから、そこへ隠れたんです。それで、しょうがないって、父が…ね。そして結婚したの。
それが昭和一三年二月。そして、戦争でしょう。
主人は宣撫
(1)使で試験受けて、昭和一四年四月に北支(北支那)へ行ったんですよ。
試験受けに行った時、警察に黙って行ったんです。
黙って行ったもんですから、所長から呼び出しもらって散々しかられて、向こうへ行ったんです。そしてね、私も昭和一五年に北支(北支那)へ行ったんです。
追って行ったんじゃなくて、宣撫班って、家庭持って行けるんです。
行って大腸炎になって大変でした。もう、帰りたくて、帰りたくて。
で、本当に帰って来て門司に、着いた瞬間に「また戻りたい」って、宣撫班に言ったんです。
虫の知らせと言うんでしょうね。「戻りたいから証明書いて」って言ったら、「せっかく来て何言ってるの。ゆっくりしたらいい」って散々言われて戻って来たんですけど、精神がおかしいんですね。
主人は、そのまま、私を見送ってから死んだんです。一ヶ月後です。
私だけが、日本へ帰って。主人は、青島(チンタオ)から戻って済南からリンセというところへ。だから、野戦病院で死んだ。私、いつも、そこの病院へ呼ばれては、亡くなる兵隊さんの手をにぎっててあげていた。その病院で主人は死んだんですよ。
その後、ずっと一人です。
それから、広島の皆さんに散々お世話になって。広島は恩人なの。何があっても。
私の主人の兄が千葉で住職をやっていて、そこでしばらく仕事をして、父の元に戻ってきたんです。
材木商の父は、その時広島で、炭坑で使う坑木丸太を出してたんです。そして、東部小学校の前に、家買って、それを私が貰ったんです。
父がね、また仕事が違うんです。東の里というところに、馬に食べさす飼料をやるために土地を買って、東の里を開いたんです。軍馬の飼料を送っていたんですよ。
そのあと、終戦なんです。
主人に死なれて、一五年に広島に来て一六年に村葬にしてもらったんですね。
当時の村長は、松原さん。
帰ってきてからは役場にアルバイトですね。農地開放の時期でしたから。
そして、私の兄の嫁さんの兄が、五番館の主任していて、「店やったらいいんでないか」って。一度村葬してもらったら、皆さんが兵隊に行く度に、見送りに出て大変で。何か自由な仕事ないかしらと、タバコの許可とってもらって店やったんです。タバコと酒と文房具店。ところが、「ありがとうございます」も言えないで、いやになったら札幌へ行ってました。
終戦が二〇年。その前でしょうか。あんまりね、出て歩くもんですから、家に居つくように何かやったらと、父が人を集めてくれて、お店をやりながらお華教えたり、手芸やったりしてました。やっぱり学校も出てないし、中退ですからね、父は心配したんでしょうね。習い事やらせようと。東京へ行ってお琴も習った。お茶も何でも習ったんですけど、身につかなかったの。
お華だけが、かろうじて。父が、また札幌へ行って、お華の先生見つけて…。
父は、波乱万丈な人ですけど、おもしろい人でした。そして、言葉だけは、きれいでした。腹立って怒ると、なお正しい言葉で…。
妹はね、(函館の)大野というところに。高校の教師に嫁いで、死んだんですけど。
姉は、夕張に嫁いで、広島に来て、こないだ死んで。商人のところへ嫁いたんです。
私が一番、波乱万丈ですね。
で、白百合会って名前をつけて、お華を教えたりしていた。小原流も池坊も両方お免状とっておいたんですけど、結局小原流で。そのうち終戦です。
注
(1)「占領地区で、そこの住民に、自国の意志を正しく理解させて、人心を安定させること。」
佐藤憲正 『日本国語大辞典 第二版 第八巻』 小学館
平成一三年年八月 一五八ページ