[石屋さんの仕事]

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 私はここで生まれています。その頃は、職人さんが沢山いました。うちにも。その頃だったら二〇人以上はいたと思いますね。職人ばっかりだね。
 
 従業員には、家族の人たちもいましたね。職人さんで、家を建てて入って、仕事にそこから通ったり。それから、農家を少ししながら、山から石切り出したり、そういうことをする人もいましたからね。今の兼業農家みたいな感じ。
 
 今、大体、何ぼくらいかな。少なくなって、一〇戸位は減ってますね。その頃、石屋やってた人は、恵庭で田口さんていう人と、斉藤さん二軒。中寄さん二軒。高沢さん…それで、もう六、七軒ありましたからね。それぞれ営業してたわけです。自分で採って、加工して。
 
 (石を採るための権利金みたいなものは)うちの場合は、今の広島の市有林、昔は村有林ですか。そこを借りて一年間いくらっていうもの。材料出た分のね、その費用を役場に納めてやってました。恵庭の場合は、結局、山持ってる人にその山代を払って…。この近辺はずっと個人の持ってたやつですね。
 
 私、昭和二〇年からずっとやってますけども、一〇年間やって、三〇年に親父が亡くなって、それから私の時代に役場から山借りて、その頃はいくらだったかな。山、何千円ていう金額だったと思いますけどね。一年間の切り出す量を、大体、ここからここまでっていうしるしを付けて。一年、二年て、その契約によってだったと思いますね。もう三〇何年前だから、忘れちゃった。
 
 ずっと夏も冬も通して働いてました。冬なんか、雪投げて…。石が凍ると、また硬くなるんですよね、しばれたら。それをしばれないように、帰り際には雪をかけて保温して。それと、全体からぐるっと凍結してくると、破裂しちゃうんですよ。中の水の行き場がなくなって。だから、片側だけは必ず土の方に埋めて、しばれないようにして。そうしていかないと、石が痛んでしまう。使えなくなる。そうなんですね。だから、休みはないです。天気良かったら何日でも。その代わり雨降ったら休みになりますね。
 
 切り出しは、出来高払いですね。出来たやつ勘定して、何ぼ、何ぼって。腕のいい人は、本当に、出来ない人の倍くらい働く。やっぱり器用な人っていうかね、なんでも出来る人は、仕事も早いし、上手にきれいに作る。
 
 石はですね、一番上の方は、火山灰みたいなとこで軟くて、段々下がってくると、自然と硬くなってくるわけ。で、その場所によりますけどね、二メートルかそこら下がると、大体、使えるような石の硬さになってくるわけです。上の分は採って投げる。だから、石が出るまで手間が結構かかったんですよね。
 
 例えば、この角からだったら、九〇センチメートルかい。昔のあれで、三尺っていいますから。三尺くらいのとこを六、七センチメートルの幅で深さ三〇センチメートルくらいの溝を掘ってくの、柄の長いつるはしで。また、九〇センチメートルくらいのとこ、ずっと掘って、そして、崖の横からですね、その三〇センチメートル掘った、深さのとこに横からまた、大体一五センチメートルくらいの間隔で穴掘って、そして、かねの矢を、くさびに打ち込んで、そして、ハンマーで一回全部、ころっと起こしちゃうわけ。割れます。かねで打ち込みますから。こうやって、起きたものを、また、小さく、使う幅によって、三〇センチメートルだとか、二五センチメートルだとかって、幅に矢を打って、そして、ぽんと割っちゃうわけですよ。(2)
 
 三〇センチメートル立方にしてね、一人で何ぼくらい出せるかな、一〇個か、一五個。三〇センチメートル角が三個だったら、それで、三切(さい)っていうんですよね。一切って、一つの切れるっていう字。
 
 一切れ。石の呼び方は、これです。何切、何切って言いますから。一日に切り出せる量が、一人一〇切れから一五切れくらい。
 
 出荷する時は、馬で。普通は、うちのやってる業者に頼んで、馬に運んでもらう。駅まで運んでもらったりして。実際、自分で家を建てるからって、運びに来る人もいましたね。自分のテコテコ馬で。
 一番遠くは、静内。静内のね、仏壇と墓石と両方やってる店あったんですよ。そこの内装に、石持ってって積み上げた。それがトラックで向こうから運びに来ましたんで、あ、札幌に何か物運んで行った帰りに、トラックで積んで帰ったんだな。で、私らは汽車で行って、そして石積み上げて。
 
 

 
(2)次頁「軟石の切り出し方」(広報きたひろしま 平成十年十月一日号『採話で見つけた北広島』より抜粋)参照。