今の中の里の道路って、当時ひどかったんですよ。毎年、雪どけになったら一面海になるんだから。
そこに、引揚げ者の住宅があって、あるとき腹痛の往診を頼まれて行ってみたら、盲腸の娘さんでね。
道は、そんなんでしょ。ジャボ、ジャボで車は行けないしさ。
戸板で娘さんを担いできて、診療室を片付けて部屋をクレゾール
(1)で消毒してさ。手術機械や手術衣などは七輪に炭をおこして煮沸して手術をしたの。
それが、手術の第一号。
なんか、大昔の話みたいだけど、広島で初めて開腹手術したの。まだ入院する病室もないから、座敷へ寝かせて。
手術なんて広島でできないと思っているから、びっくりするさ。若造あんこがやるんだから。まだ三〇ぐらいだからね。
そして今度ね、三日ぐらいしたら、小学校の校長さんが盲腸になってね。その人も手術した。それが二人目の手術。そして家内が三人目でした。
手術室を作ったのは、その後だね。
それから一ケ月に三~四人の盲腸の患者さんがいたの。
七〇歳代の人を一日に三人続けて手術やったこともありましたよ。
忙しい程、なんとなくファイトわくんだな。看護婦さんは大変でしたけどもね。
あるとき、農協の専務に「今まで何人ぐらい手術をしたのか」と聞かれたので、「一〇〇人ぐらいですね」と言ったら、「女でも着物一〇枚縫ったらうまくなるものなあ」と言われたことがあったね。
昔、広島の秋祭りが一〇月一〇日だったんだ。この近郊では一番遅かったので、他方から人がたくさん集まってきた。
そこで、やくざのケンカなんかもしばしばでね。腹を刺された人が夜中に運ばれてきたのさ。
当時、力道山がやられて死んだ頃さ。
やくざなんて、ま、死んでいいとは思わんけど、軽い気持ちで傷口や腸を消毒して、縫いあわせた。そしたら、順調に治ってさ。退院したのには驚いたね。
それからね、大谷木材の材木置き場で、ケンカがあったのさ。
睾丸蹴られた人がいてね。
ちょうどお盆だったんで、翌日旭川から墓参りに行って帰って、診たら睾丸破裂ですごいことになっていてね。
それで、その日のうちに手術で摘出してさ。
退院するとき、「子どもできないかもしれないよ」って言ったんだけど、なんとそれが、女の子と男の子と2人できた。しかも下の男の子は私の末娘と小中学校同級でしたね。
それから、生命保険の審査っていうのがあって、必ず本人の刺青とか、盲腸のあととかみんな報状
(2)に図示して記載することになっているんだけども、たまたま、「あんた、それどこで手術したの?」って聞くと、「あーら、いやだ先生でしょ」っていうのが度々あった。
昔ならいろんな病気や怪我っていうのを診た。今みたいに、内科だとか外科だとか分かれていないから。いや、もうやらざるを得ないのさ。
それでも、その当時は、やっぱり内科が多かったね、子どもだとか。熱が出たとか、風邪とかね。
ときには耳鼻科、眼科、泌尿器科。そしてお産の取り上げを産婆さんに頼まれて応援に行ったこともあったの。
国道三六号線も弾丸道路と呼ばれていて、交通事故も多かった。もうどうしょうもないのも多かったね。
こんなこともあった。釧路から電話がかかってきて、「釧路で盲腸だって言われたけど、やっぱり広島へ帰って手術してもらいたいから、これから帰るから」って。
診たらね、どうも盲腸でないみたいなんだわ。入院させてしばらく様子見てたらね、石がコロンと出たんだ。尿管結石だった。沢山水飲んだり、ビール飲んだり、縄跳びしてたら治ると先輩に教えられたことがあったけど、今は、エコーで診れば、すぐわかるんだ。
盲腸か疑わしいとき、どうかと思って、一応、血液とって白血球数えるでしょ。
今は血球計算機で簡単にやってるからね、いろんなデータが全部出てくるでしょ。
当時は大変でしたよ。だって、顕微鏡覗いて白血球を数えるんだもの。あれはまあ、大体一〇〇〇〇以上ぐらいが手術の適応となるからね。
時代は、変わったね。
でも、今はわりと機械にふりまわされて、患者さんの側に立ってっていうのがないでしょ。機械に診断される感じで、医師と患者の意思の疎通が薄くなってきている。あれは、あまり良くないことですね。
注
(1)「石炭タール、木タールから得られる無色または淡褐色の液体。消毒・殺菌・防腐剤として広く利用されている。」
佐藤憲正 『日本国語大辞典 第二版 第四巻』 小学館
平成一三年年四月 一一〇三ページ
(2)「しらせの手紙。通知の書状。」
佐藤憲正 『日本国語大辞典 第二版 第十一巻』 小学館
平成一三年年一一月 一四二一ページ