往診の移り変わり

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 自転車で往診したのは、昭和二九年頃。あの当時、雪が少なかったね。年の暮れから正月にかけて、毎日自転車で往診したんだ。春先まで。春先…あれ四月頃かな、オートバイ買ってもらった。
 
 その頃、獣医さんがオートバイで往診しているのを見て、うらやましく思っててさ。
 
 (札幌市)北一条の東二丁目にね、金子モーター商会というのがあってね。メグロっていうオートバイと、キャブトンってのがあって、獣医さんはキャブトンに乗ってたの。キャブトン三六〇cc。それが二三万さ。
 それを一九万にまけるっていったの。でも、メグロ二五〇ccは、びた一文まけないって言うんだ。それが二二万。
 金子モーター商会の奥さんってのがね、ちょうど肝っ玉かあさんみたいなもんでさ、大の男が頭下げてもね、だめだって言うんだよ。まけないって言うんだよね。
 僕はね、朝日グラフで、「メグロ第一号未だ健在」って記事を見たことがあって、車体もしっかりしているし、欲しくなってね。
 それと、オートバイってのは二五〇ccまでは車検いらないのさ。それ以上になったら、毎度車検受けなきゃならない。また余分な経費がかかる。それから、免許とるのに法規と構造とを勉強しなければならないから、もうキャブトンはだめだ。メグロがいいって、とうとう、メグロにした。
 
 その後間もなく、長沼で試験受けて免許とった。
 
 オートバイって冬乗ったらね、鼻や指の先、足の先が冷たかった。
 
 農場に往診に行くときには、途中まで馬橇で迎えに出ているからっていうけど、行ったら板の上にムシロ一枚でしょ。いや、いやそれまた寒くて。かばんだけ積んでさ、「俺、走るわ」って走ったこともある。寒くて乗ってられないもんでさ。
 原々種農場はね、陸の孤島ってよくいうけどね、病人が出たら官舎の人が集まってね、お湯沸かしたり、いろいろ手伝いをしてくれる。僕は、ああいう雰囲気好きだったね。
 
 ただね、冬の農場の往診は大変だったね。あの頃はね、椴山から行っても、中の沢から行っても、どっちも道がないから、どっちから行っても中間点ですよね。みんな買い物にも出られないくらいだから。
 
 車の免許とったのは、三四年。
 
 六月に椎間板ヘルニアのため腰が痛くて痛くてね、もうオートバイはだめだと、真駒内の自動車教習所に行ったんだよ。
 今みたいな学校でないんだから。教科書がなんにもないんだわ。ただ、問題集勉強して、三日ぐらいたったらねえ、実施だ。それで一週間目に試験さ。すごく緊張したね。
 
 免許とってからは、車で往診に行った。
 
 車になっても今度、冬道、わき道が大変だった。轍に落としたら大変さ。今は舗装だからそんなことないけどね。当時は四輪駆動でなかったから、ぬかるみに入って苦労したこともあった。車になって、一番喜んだの川手さんだね。今度聞いてみなきゃだめだ。無医村だったから、小学校、中学校全部、一人で健康診断やるんだからねえ。毎日は行かなくても、一ケ月はかかったよ。全部まわるのに。
 今は学校なくなったけどね、墓地があるでしょ?霊園。あそこに、上仁井別って小学校があった。山菜採りの時期になると、山火事予防のための検問所ができて、普通の人は入れないんだわ。だけど、健康診断だから、学校に行くでしょ。子ども少ないからねえ、ま、二〇分か三〇分で終わるのかな。
 
 ちょうど山菜採りの時期だから、それから川手さんと二人で山へ行って、竹の子採ってね。
 またたく間にね、お米の袋いっぱいになるんだから。そのかわり家に帰ってきて、全部脱がなかったら、ダニでひどいんだ。だけどね、良い竹の子があったよ。
 
 学校の校医やってて、当時の子どものね、衛生環境なんてのは、すごく悪かったと思う。
 体格はね、悪かったね。でも天使園の子は良かった。
 あそこはね、女の子ばっかりだったの。わりと白くてぷくーっとしてね、栄養状態が良いわけだ。食料事情がね、米軍から、粉ミルクだとか配給になっていたから。
 
 日本人には、そいうものがないから、極端に言えば、米のとぎ汁飲んでたんだ。だから、骨や関節が極端に変形してたりね。当時の子どもと天使園の子どもに、すごい開きがあった。
 
 卵だってそうそう毎日は食べなかっただろうしね。なんせね夏は、生魚や肉が無いんだから。冷蔵庫が無いからね。
 
 あと、頭にしらみがいるでしょ。今みたいにさ、明日、健康診断だから、風呂に入ってきなさいってわけにいかないでしょ。子どもの数も多かったし。
 
 その後、たまたま今のところに「開業せい」って言ってくれる人がいたから、昭和三七年に開業した。
 
 本当はね、いつでもやめて帰ろうと思ったこともあるんだけどさ。
 
 なぜ一年の契約だったのに、診療所に続けていたかって?
 
 だってさ、オートバイ買ってもらって、「はい、さよなら」ってわけにいかないでしょ?
 手術室作ってもらってね、「はい、さよなら」ってわけいかないでしょ?
 レントゲン取り替えて、「はい、さよなら」っていかない…。
 
 まあ一年が二年、二年が三年、三年が四年で結局八年いたんだよ。診療所にね。
 
 診療所が一軒だったってのは、ものすごい大変だったね。
夜中に起こされないことなかったよね。
 今行って帰った来たと思ったら、電話がかかってくるでしょ。濡れた合羽を着てね。また、冬オートバイにエンジンかけるのが、セルモーターがないからキックするのが大変だった。
 
 それでも、ま、辛いは辛いけど、やっぱり若さだったのかな。
いまだったら、できないね。
 
 私も、もうそろそろ、卒業させていただきます。