結婚は二〇歳。父が亡くなってから五年。
宮村商店って、極応寺の向いくらいにお店があって、かなり昔からあったみたいだね。
いつからその店やってるのか誰も分かんないんだよね。同じような店やってたんだ。宮村と越田の家と。
結婚して、宮村のお店で仕事しながら、また畑も田んぼも作ってました。どちらも通い作りだったの。
長男は二四年に生まれた。そのときの産婆さんは、大渕さんのおばあちゃん。今の大渕さんの親が産婆さんで、三島の奥の方にいたの。家の田んぼのとこにも、保健婦さんがいたんだわ。岩谷さんて保健婦さん。その人も産婆もやってました。二番目の時、岩谷さんにかかったんだよね。田んぼ行ってお昼になったら、そこの家でお昼休ましてもらってたりしてたから。
生まれるぎりぎりまで働いたよ。
昔の人なんてみんなそうだよ。今日はお腹痛いからって言ったって、そんなもん病気でないって言われる。あっち行ってゲーゲー吐きながらでもね、それでも一生懸命に仕事したんだよ。
私は宮村で産んだのね。
だって、実家へ帰ったって忙しいんだしさ、どっちも忙しいからね。だから実家に行かなかった。
旦那はね、昭和三七年に三九歳で村会議員。このときは、まだ村だったの。広島町になったのは、うちの旦那が死んだ時だから昭和四三年の九月一日。
旦那は急に倒れたの。脳溢血で四五歳だった。八月二九日に死んだんだけど、九月の一日が葬式だったのさ。それでも弔辞は町会議員って読んだね。
あの時は、みんな大変だったらしいんだわ。消防の人から議員の人からね、町に切り替わる時の色々な儀式あるでしょ。それに、うちの葬式には来なければならんし。
旦那が忙しい人だったからね、店の切り盛りとかは、私がやってたのさ。
その頃、新聞もやってたから。配達は子どもたちに朝晩やらさして、大曲の方は人を頼んでた。
その頃は郵送が多くて、毎日封して郵便局に持ってかなきゃならん。郵送だけでも一〇〇なんぼあったから。部数も多かったしね。
帯封作るのも、新聞包んできた紙をとっておいて、のり貼りして帯封作った。チラシがある時は、チラシを入れて帯封して、八時までに郵便局に持ってかんとなんないしさ。新聞は朝の三時半か四時位には届いて、それから家の人たちで手分けしてね。子どもたちが手伝ってくれたからやれたのさ。
子どもは四人いたの。上三人が男で、四番目が女。
手伝ってくれたから学校もどうにか上げれたけど、そうでなかったら…。だって一番お金のかかる時だもの。上は大学上がって二番目は高校でしょ、三番目は中学卒業して高校上がる時で、一番下が中学へ上がる時。
また集金するのが大変なの、何回も行かないとならないしょ。だから、うちの上の子なんか五年生位からバイクに乗ったよ。今なら駄目だけど。
みんな助けてくれたからね。それでなかったらとっても…。
新聞は、三番目が学校終わって就職するようになってから、人足りなくて出来なくなって、みんな桧山さんに任したの。
こうやって話すと、いろいろ思い出すけど、今が一番いいんでないかい。
もう身体も続かんから、店のことは殆ど任せている。だけど今も、朝早く六時ちょっと前ぐらいから九時ぐらいまで、週に四回は店に出てるの。掃除とかいろんなことやりに。
ちょうどいいの、やっぱり時間持て余すしね。
小さい時からずっと働きづめだから、働くことは何も苦にならない。
踊り?今でも続けてるの。