たたみやを始める

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 それから広島でたたみやさんが、始まったわけ。
 たたみやとして始めるのに場所も無いし。さぁ、どうするかなって思っているうちに、嫁さんの骨折りで、あそこへね、あの…あれは、和田さんの土地だったのかな。
 終戦で広島に来てから三年目か、そこらだね。
 
 どうしようかと思ったよ。だけども自分のね、腕に覚えがあるからね。何とか仕事やる場所だけでもと思って頑張ってるうちに、島松にあった蔵なんだけどね、蔵ったって、昔の草葺のを買って。それから、中ノ沢の奥辺りのだとかって馬出してくれてさ。春先だからね、三月か。
 一日で壊して、木材だけ持ってきて・・・屋根はどうしようも無いんだから。草葺だからね。
 島松から持ってきたんだ。まぁ、真面目にさえやっていれば、何とかやっぱりね、なるもんだね。なるもんだねったって、いや、みんなが面倒みてくれたからだけどもさ。
 まぁ、それで一軒その家を建ててさ。みんなに手伝ってもらって。従兄弟が大工さんだったりするからね。で、「何でお前、早くに言わないんだ」って、逆に怒られちゃって。「でも、今、金がないから」って待ってもらって。でも、何だかんだってあれだよね、やっぱりあの頃で、一〇何万の金を持って、やったんだね。
 私はね、妙な人間なんだわ。苦労ってやつを忘れてる、苦労したことを。おかしいんだよね。
 たたみやさん、始めた頃はもう三〇…。
 昔はたたみ床も手で縫ったけどね。もう手なんかね、糸であれするんでね、たこになってすごかったよ。今はもう全然ないけどね。
 
 札幌にいてね、競技会があったときに、一番枚数が多かったのは私。
 いよいよになったらね、私はもう目の色が変るっていうかな…ははは。他の人がそういうんだ。表返しと裏返しをやるの。一枚やるのに一〇分から一二、三分。ちょっとかかったなと思っても一五分で一枚。
 
 ここへ来てから、私は人に笑われるくらいね、機械に熱心だったからね。他のたたみやで新しい機械を組み立てしたけれども使えなくてね。ぐれて駄目だという機械を買って、そしてその機械をね、お正月、元日も休まないで修理にかじりついて、とうとう運転するようにした。その機械で作る頃にね、正規の工場を建てた時分はね、住宅から、全部入れて一〇〇坪の建物。
 
 広島は全域商売で歩いたわけ。島松の方もこっちに来てからだな。長沼、西長ね。西長の農協さん辺りがね、二、三人西長の人がね、随分応援してくれてね。金の応援じゃなく気持ちの応援さね。いやっ、これがまた大事なんだわ。応援してくれてね、随分西長なんかも私のたたみ行ったよ、野幌の方も行ったね。
 その頃は車でない。馬車や馬橇を使ったわけ、馬車で…。もう、高台の方から全部だ。お寺も神社だとかみんな、冬はね。そして表を張るのは、その家へ行ってやる。新しいたたみはそういうわけにいかないからね。こちらでやるんだから。寸法計って来てね、工場の中でね。
 
 冬でなければリヤカーっていうやつで、何年くらいまで配達したかな…たたみ付けるリヤカーはね、特殊なものだからね。札幌で作って、それでもって近いところは引っ張って歩って配達してた。