青年団活動のこと

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 広島村連合青年団は、東部青年団と西部青年団。その下に、東部青年団も西部青年団も支部があるんです。輪厚ね、それから島松とか、三島とか、仁別、大曲、行在所分団とね。島松の行在所だけは、行在所守護分団っていう形であったんですね。だけども、行事は必ず西部の中で一緒にやったんですけども。
 その中の事業としては、まず剣道大会。それは、西部は西部、東部は東部でやって、その上はあんまり記憶ないんですけども、輪厚の体育館で支部対抗の剣道の大会があったこと。それぞれ会館はあったので、そこで練習をして、西部小学校で対抗大会があった。そのときの審判に松原太郎さんがいたのを覚えてる。
 体育大会は、連合青年団主催で、東部小学校校庭で、五月二三日。今でも、なんか、広島の本当は、春祭りにあたってるのかね。
 ともかく、五月二三日に東部小学校で体育大会をやってて、小学生だった時には、青年の人の自転車に乗せて行ってもらった。高等科になってからは、自分でも自転車を持ってたから、自分で行ったんですけどね。バナナを食べるのはね、春先になって、その時が初めてだったような気がします。お小遣いを貰ってってね。それまでは地元のお店に、バナナなんか置いてなかったよね。
 そして、敬老会っていうのがあるんですね。今、西地区は敬老会連合町内会と、社会福祉協議会の主催でやってるんですけど、その当時はね、青年団がやっていたんですね。
 この事業は、三月の彼岸頃行われていて、この為に青年たちは、正月済んだら演芸の練習。女子青年などは、舞踊の練習。
 当時、六〇歳以上だったか…七〇歳以上ではないと思うんだよね。小学校の屋内体育館でやったわけですけど、馬橇で各家を回って乗せて行ったんだわ。で、青年団は昼食の用意もしてだよ、女子青年の幹部の人たちは、ちゃんとお化粧をして着物を着て、接待に努めたわけですが…。
 
 今思うと、その裏には、年頃の娘さんが、今のように自由恋愛よりも、お年寄りに認められる事で結婚につながっていくと。はっはっはっは。
 若者に見初められるよりも、じいさん、ばあさんに見初められた方が確率がずっと良い。昔は家に嫁ぐからね。
 それは、うんと大人になって、そうでなかったかなっていう記憶で…。はっはっはっは。そのような気もするわけよね。
 
 よそからも見に来て、体育館は、溢れるばかりの人だった。娯楽は春の敬老会と秋祭りだけだったからね。
 
 この辺にいる娘さん方もさ、もう幹部の人たちは、家の母に着物着せてくれって来たもんだ。そしてね、着物着て行ったんだわ。そしてね、その人たちは、そのまま、踊ったり芝居したりしないんだから。接待をきちんとしてね。
 
 青年団が、一日朝から晩まで。各支部で、全部やったんだ。劇もやった。劇は、俺もやった。あんまり記憶がないけどね、毎年何か、かんかやってた。
 戦後になったら、時代劇やったから、鬘(かつら)なんかを札幌行って借りてきたからね。戦前は、そんな物借りてきて、かぶったのないからね。まぁ、現代物…それこそ、人情物なんかやってたんでないか。
 そして、盆踊りは、各支部が、島松なら島松、輪厚なら輪厚主催で盆踊りをやった。私も戦後すぐ輪厚の団長さんを、三年ぐらいやったのかな。その当時はね、盆踊り日をずらして、島松やる日は輪厚休んで、そして島松行って、盆踊りやった。で、輪厚やる日は、島松の人たちが、みんなこっちに来て。それなりに、お互い手間貸しっていうのかな、盛大にやりました。
 太鼓の叩き手なんて、昔はなんぼでもいたもの。
 そして、歌う…もうレコードなんてかけないからね、生で歌ってさ、輪厚の今でもいる、荒井さんっているんだよね、白樺養護学校の。あの、おばあちゃんとか、亡くなったご主人なんかが来て、よく歌ってくれたさ。
 
 それから、もう一つはね、秋祭りなんだけども、これは、最大の事業で、まず秋祭り寄付っていうのは、今でもそうだけども、神社総代がその年の作柄によって、今年は作が良いからとか、悪いからっていうことで、なんぼでやれと予算を決めてくれるんだ。で、そこで青年たちは、その予算の範囲内で、いかに良い劇団を連れて来るか、それぞれ腕の見せ所でね。自分も二、三年やったんだけども、札幌まで自転車で出てってね、豊平橋渡ったらね、そういう人たちが居た所があったのね。で、行って交渉をした。劇団みたいのもあるし、後は漫才とか踊りとかね、浪曲とか。もっと小さい部落になるとね、浪花節を頼んだりして。
 
 今は会館作ってあるけど、当時は何も無かったから、舞台を作るわけよ。でね、ちゃんと丸太は寄せてあったり、それから丸太を縄で縛って舞台を作って、花道まで作んなきゃなんない。学校行って、教壇を借りてきてさ、その舞台の丸太で作った上をうまく並べてね。今みたいにコンパネあれば何ともないんだけど、そうやって舞台を作ったんだ。それから、電気がなかったから、みんな青年団は、秋になったら提灯持たされたって。自分でお金出したんだろうけどね、自分の名前入って、輪厚青年団ってね。そして、提灯をさしといて灯かりにしたわけだ。舞台やなんかのね。
 戦後はね、バッテリーを使ったよね。戦前はどうしたかなぁ。だけど、舞台はさ、花道やなんかは提灯が一列にささってたの。それで、団長さんは、線が3本ぐらい入ったりさ…。
 
 おひねりだとかって、役者さんにやるでしょ。昔は、青年団にくれたわけ。青年団に花をくれるわけ。役者さんには、一銭も行かない。それでね、俺もちょっと言葉忘れたんだけど、花をくれると、そのお礼のために青年団の人がね、西洋紙に書いて、「東西東西、これよりは、お花のお礼を申し上げます」と言ってね。
 個々によって違うもんだから、他所から来てる青年がやじ入れて、「短いぞ」とか「長いぞ」とか、ちょっと顔のまずい人に「色男~」ってね。まぁ、そうやって、やじも入ったりしてね。はっはっは。
 おひねりは、一〇円なの。せいぜい一〇円か二〇円。で、一〇円くれるのはね、一〇〇倍くらいにして、「一〇〇〇円、一〇〇〇円なり」とか言う。当時は一〇〇〇円札って無かったから。大きくわざと、「一〇〇〇円なり、一〇〇〇円なり」とやってね、そして、お酒、魚、お米何百俵とかってね、輪厚の高根さんなら、「牛百頭、高根さんよりくだしおかれました」って、読み上げてね。
 
 去年、俺は輪厚の秋祭り行かなかったけど、お花のお礼を昔流でやったって言ったよ。ちゃんと、覚えてるのがいたんだね。