ひろしまに汽車が走った日


 
1

 大正十四年、沖中少年は、小学校三年生でした。
学校には 教室が一つしかありませんでした。
先生もたった一人でした。
生徒たちは、学年ごとにグループで勉強をしておりました。
今日は先生が札幌へ用事があって出かけていて るすです。
大きい生徒は、先生のかわりになって、小さな生徒に勉強を教えてあげました。
先生の奥さんは 時々 教室にきて「ちゃんと 勉強するんですよ!!」と言っていきます。
沖中少年も 一年生に習字を教えてあげたことがありました。

 
 
2

 いつものように 大きな木の株の上ですもうをとって あそんでいると、クニちゃんが走ってきました。
「オーイ オーイ!この辺に鉄道線路がつくんだってよ!」
「うわーすごいな、いつ!いつ!」
「すげいなぁー いよいよ汽車が走るのか」
みんなは 汽車が走ったら 一番先に札幌に行きたいと言いました。
 大正十四年の広島村では、どこへいくのにも歩くか、馬車や馬そりに乗るしかありませんでしたので、汽車が走ると とても便利になると思いました。
 お父さんも札幌へ出かけると一日がかりだったし、ふぶきの日は帰ってこれなかったこともありました。
農作物や すみなど汽車に乗せて運べると お父さんは たすかるだろうなぁ とおもいました。

 
 
3

 まもなく、音江別神社の近くにあった、お店だった所が改造されて、たくさんの土工夫がやってきました。
それから毎日、粗末な服を着た土工夫たちが 列をつくって歩く姿がみられました。
中には、裸で赤や青のおこしをつけた人もいます。
沖中少年は、その人達が、どんな人たちなのか、どこからきたのか 知りませんでした。

 
 
4

 ある、はれた、お花がいっぱいさいているころに、学校にひとりの女の子が転校してきました。
名前は 宗像(むなかた)みよちゃん
みよちゃんは 耳が聞こえないので お話ができませんでした。
みよちゃんのお父さんは 土工夫たちを連れて 鉄道線路を作りにきた会社の社長さんでした。
沖中少年はすぐにみよちゃんと 身ぶり手ぶりで 遊んだり、勉強したり すぐ仲良しになりました。

 
 
5

 子どもたちは 土工夫の住んでいる飯場(はんば)へは近づく事も出来ませんでした。
でもある日、みよちゃんの家へ遊びにいったとき 沖中少年は飯場の様子を少しだけ見ることができました。
大勢の土工夫たちが、立ったまま、ご飯を食べていたのでとてもびっくりしました。
そして 部屋のすみに ながい丸太が並べておいてあるのが、寝るときに枕につかうことや、朝になると棒頭(ぼうがしら)が丸太のはじっこをトンビでいっぱつドカーンとたたくと、土工夫たちは、いっせいに飛び起きるのだと みよちゃんがおしえてくれました。
おとなの人たちは、鉄道線路や道などを作るため内地から、働きにきているのだと言っていました。
市街や、野幌のほうにも同じように、飯場があるらしいとか、タコ部屋らしい とかいっておりましたが、子どもたちは、一日も早く汽車が走る日が待ち遠しいだけでした。

 
 
6

 仕事に出た土工夫たちは 朝は暗いうちから 晩 暗くなるまで、棒頭が何人も見張っているところで働いていました。
時には、少しでも休もうとしたり、辛くて逃げようとすると棒頭がやってきて、どなったり、カシの棒でたたいたりして大変でした。
こうして土工夫たちは、一生懸命 線路を作るために働きました。

 
 
7

 鉄道線路がだんだん出来てきたころには、みよちゃんのお父さんの宗像彦三さんは 村の人たちとも親しくなり、食糧のことでお世話になったことや、工事の安全を祈って 音江別神社の鳥居をたててくれることになりました。
仮設工事のトロッコの線路をしんぼうにして鳥居を作り出しました。
ですから音江別神社の鳥居は 鉄道線路の鉄骨で作られているのです。

 
 
8

 いよいよ鉄道線路が完成しました。
村に汽車が走ってくるのです。
汽車が初めて走るので、どこの駅でも盛大に 紅白のもちをまきました。
沖中少年は、自転車で恵庭の駅まで もち拾いに行って、大急ぎでかえってくると 北広島駅前でも 村長さんや駅長さんたちが紅白のまくの前で『おめでとう』と、あいさつを言っているところでした。
そして、高いやぐらの上から、紅白のもちをたくさんまきました。
もちろん、沖中少年もたくさんもちをひろいました。

 
 
9

 苫小牧の沼ノ端からきた汽車は、札幌の苗穂駅に向かって真っ黒いけむりと 真っ白い蒸気をはきながらガタン ゴトン と動き出しました。
力強く走っていく汽車に 沖中少年は胸が一杯になりました。
汽車も けむりもみえなくなるまで 見送っていました。
それは、空がはれわたった 大正十五年八月二十一日だったのです。
おわり