本地方の最古の地層は、西部の山地に分布している御斎所(ごさいしょ)変成岩(高帽山、鷹巣山、重内(しげうち)、西明寺(さいみょうじ)付近)と、竹貫(たけぬき)変成岩(花園から和尚山にかけて)で、約六億年前日本列島の土台を作った岩石であるといわれる。これらの岩石は、約二億年の間海底にあったが、古生代の末期から中生代初期の三畳紀にかけての、本州造山運動によって海上に押し上げられ、阿武隈山地が出現した。
その後阿武隈山地は地殻の変動で東側(双葉(ふたば)断層線)と西側(里川構造線)とに切断され、現在のような紡錘形(ぼうすいけい)になった。そこに海が浸入したが、古第三紀の始新世後期から、漸新世始めには陸地となった。常磐炭田の石炭層はこの頃にできた。
古第三紀の終りから、新第三紀の中新世にかけての海中での激しい火山活動によって、常磐海岸地帯の基盤岩は形成され、本地方の白水(しらみず)層群、湯長谷(ゆながや)層群、多賀層群などができた。
中新世末頃、海はしだいに退却し、鮮新世になると、常磐海岸地帯は陸地となった。
洪積世の初期には、天妃山付近の磯石である堅硬質の粗粒石英砂岩が堆積された。この時代には、地盤の隆起が間欠的にあって、常磐海岸地帯の基盤岩は、そのたびに東流する河川によって削られ、谷が深まり、山麓には砂礫を堆積して扇状的地形が作られ、河川はさらに谷底平野を流れて、下流に土砂を堆積して平地を形成した。
沖積世に入って、約六〇〇〇年前には、大きな海進(縄文海進)があって、平野部や谷には海水が浸入して溺れ谷となった。この様相を示す貝の化石が、塩田川の谷であった日棚から発見されている。その後海が退き、現在の海岸平野が形成された。
なお、石炭層は阿武隈高地の東麓に、常磐炭田の主要部として南北に連なり、その露頭は海岸より西約五キロメートル付近にみられる。この石炭層は礫岩(れきがん)、砂岩、頁岩(けつがん)などの累層(るいそう)の中に介在し、五層からなり、そのうち稼行対象となるのは、四番層と五番層で、その厚さは一メートルから二・五メートルのものである。
常磐炭田の基盤岩層は、阿武隈高地を構成する花崗岩および結晶片岩類で、主な夾炭層は古第三紀漸新(ぜんしん)世白水(しらみず)層群の下部である石城層にある。約三〇〇〇万年前と推定され、当時は阿武隈高地の山麓付近まで海が浸入し、海岸近くには水生植物が繁茂していて、それらがやがて蓄積して炭化し、石炭となった。
炭質は黒褐炭に属し、非粘結性で、発熱量は五〇〇〇カロリー前後で、灰分も多く炭質はあまり良好のものではない。
石炭を採掘する時、石炭にまじって掘り出された不用の岩石が、地表高く積み上げられたものが、ずり山である。