北茨城市の縄文遺跡は、現在二二か所が確認されているが、山間部や山林部での遺跡確認は困難であり、遺跡の現況は畑が多い。
縄文遺跡は、里根川・花園川・大北川・塩田川流域の台地上に位置するものが多く、縄文時代各時期のほか、弥生時代や古墳時代の遺跡と複合する場合が多くみられる。
市内縄文遺跡の発掘調査例は少なく、昭和五十七年までに四遺跡があげられるのみである。いずれも小規模な発掘調査のため、遺構や遺跡の性格について詳細に把握されたものではない。
昭和五十年五月、中郷町粟野の糠塚(ぬかずか)一号墳調査の際、早期末の貝殻条痕文系の土器群が出土し、昭和五十五年七月から八月には同町日棚の細原遺跡発掘調査が実施された。細原遺跡は、前述したように先土器時代の石器群が多く出土した遺跡であり、調査区内より貝殻条痕文土器を出土する炉穴が確認されている。昭和五十六年十二月には、大津町の大津廃寺跡(馬頭観世音廃寺跡)確認調査が実施され、竪穴(たてあな)住居跡の一部が確認されている。さらに、昭和五十七年八月には、関本町の上野台経塚群調査が実施され、塚下に縄文時代の遺物と遺構が多数検出されている。
市内の主な縄文遺跡には、次のようなものがある。
上野台遺跡は、関本町関本上にあり、前述のように昭和五十七年八月に上野台経塚群の調査に伴って一部が調査された。遺跡は標高四三メートルほどの台地南辺部にみられ、調査区より竪穴住居跡・土壙(どこう)・甕棺(かめかん)などが確認された。部分的な調査のため全体を把握することはできなかったが、大木(だいぎ)8a・8b式、加曾利EⅠ~EⅣ式、称名寺式、綱取(つなとり)Ⅰ・Ⅱ式、堀之内Ⅰ式、加曾利(かそり)B式、大洞(おおぼら)BC・C2式、安行(あんぎょう)Ⅲ式など中期中葉から晩期にわたる土器群が出土している。そのほかの遺物としては、土偶・土錘(どすい)・スタンプ形土製品・石鏃(せきぞく)・磨製石斧・打製石斧・石皿(いしざら)・敲石(たたきいし)・くぼみ石・石錐(いしきり)・石錘(せきすい)・石棒・玉類などが出土している。
八塚遺跡は、関本町富士ケ丘錦畑にあり、標高五五メートルほどの台地上に位置している。遺跡の時期は中期中葉から後期前葉の土器群がみられ、磨製石斧・打製石斧などの石器類も出土している。とくに注目される出土品は土偶の頭部(口絵)であり、中部山岳地帯から多摩丘陵にかけて分布がみられる勝坂式土器に伴うものである。土偶の目は鋭くつりあがり、口の表現に特徴がみられ、勝坂式土器分布圏からの搬入品と考えられる。
北作貝塚は、大津町北作にあり、大津廃寺跡の北の傾斜面に形成された茨城県最北端の貝塚である。貝塚はそれほど大きな規模を有するものではないが、採集された土器からみると、中期中葉から後期前葉にかけて形成された貝塚であり、ダンベイキサゴ・レイシ・サザエ・ハマグリ・ウバガイ・アカニシ・シュウリガイ・アワビ・カキなどの貝類のほか、マダイ・カジキマグロなどの魚類、イノシシ・シカなどの哺乳動物の遺存体がみられる。
花地遺跡は、中郷町松井にあり、標高四〇メートルほどの台地上に位置している。出土遺物からみると、中期中葉から後期中葉までの土器が主に出土し、遺物の分布も密にみられる。
細原遺跡は、中郷町日棚にあり、標高六〇メートルほどの台地上に位置している。前述のように昭和五十五年に一部が発掘され、先土器時代のユニットと複合して早期末の炉穴が発見されている。炉穴は、長径約二メートル、短径一・五メートルほどの不定楕円形を呈し、覆土(ふくど)には焼土が多くみられた。その覆土内からは、貝殻条痕文系の土器が出土している。