足洗遺跡と足洗式土器

36 ~ 36

茨城県の弥生文化の研究は、昭和十年頃から始まり、下館市から発見された古式の弥生土器である女方(おざかた)式土器と、多賀郡十王町から発見された新しい弥生土器の十王台式土器の研究から出発したといえる。戦後、これらの土器の間をうめるべく多くの研究者たちによって活発な地域研究が行われた。

 昭和二十九年、県立日立第二高等学校に保管されていた多賀郡南中郷村足洗出土の三個の土器が、幼児葬に使用された土器として注目され、昭和三十一年には発掘調査が実施された。

 足洗遺跡は、北茨城市中郷町足洗六一七番地ほかにあり、海岸線に沿って細長く形成された標高六メートルほどの砂丘上に位置している。昭和二十九年に注目された三個の土器は、甕と壺が合わせられた甕棺で、その上部に小形の壺が重なって発見され、合口(あわせぐち)甕棺内部には下顎(かがく)骨などの人骨が納められていた。これらの土器が発見された場所を二〇平方メートルほど発掘したところ、四組の合口甕棺、四基の壺棺および副葬もしくは供献されたとみられる二個の土器が検出された。合口甕棺は、表土下四〇センチメートルほどの砂の中にほとんど斜位の状態で発見され、甕と甕や甕と壺の組み合わせがみられ、底部に穿孔(せんこう)されたものもある。

 発見されたこれらの土器群は、平行沈線文を有する土器、縄文および撚糸(よりいと)文がみられる土器に分けられ、前者は壺形土器および坏(つき)形土器、後者は甕形土器であり、茨城県弥生時代中期末の足洗式土器として型式設定された。

 足洗遺跡は、集落遺跡ではなく、合口甕棺内部から出土した人骨などからもわかるように墓域であり、合口甕棺を墓制とした遺跡である。

 足洗遺跡から出土した土器群は、茨城県北部から福島県南部に広く分布し、ほとんど合口甕棺を伴う墓域の遺跡であることが注目される。


足洗遺跡遠景


足洗遺跡出土の土器