古墳時代の民衆のくらしは、被支配者としての生活であり、四本柱で方形の竪穴式住居に住んでいた。住居の規模は時期によって変化がみられるが、中期には一辺が一〇メートルほどの大型住居が出現する反面、それ以降は小型化の傾向を示す。しかし、一般的な住居規模は、一辺が四~五メートルほどのものである。前・中期の住居内には炉がみられ、後期以降、粘土などで壁に竈(かまど)が構築された。
古墳時代の土器は土師器(はじき)と呼ばれ、壺(つぼ)・甕(かめ)・高坏(たかつき)・坏(つき)などの器種があり、奈良・平安時代まで存続する。また、須恵器(すえき)と呼ばれる登り窯で焼かれた灰白色の外来の土器は、後期頃県内に搬入され土師器と共存した。
市内の集落遺跡の調査例はないが、前・中期に大津町立野遺跡・関南町北茨城高等学校内遺跡、後期に大津町宮西遺跡・中郷町小野遺跡などがあり、奈良・平安時代の集落遺跡と複合する場合が多い。