平安時代の辞書『和名抄(わみょうしょう)』をみると、多珂郡には梁津、伴部、高野、多珂、藻嶋、新居、賀美、道口の八郷の名が記されている。梁津郷は「粱津」の誤りで「アワツ」と読み、北茨城市大津、平潟、関本付近に推定されている。そうすると粱津郷は、陸奥国に接する常陸国の最北端の地であったことになる。
「粱津」の「津」は港のことである。『常陸国風土記』信太(しだ)郡の条には、「榎浦津(えのうらのつ)あり。便(すなわ)ち、駅家(うまや)を置けり。東海の大道(おおぢ)にして、常陸路の頭(はじめ)なり」とある。榎浦津は、現在の茨城県稲敷郡江戸崎町下君山付近と思われる。このあたりは当時、入り海で港になっていたのである。榎浦津は下総(しもうさ)国から常陸国に入る東海道の要衝になっており、ここに常陸路の最初の駅家が置かれたのである。だから駅家の官馬を利用する伝駅使(はゆまづかい)たちは、榎浦津の駅家でまず口をすすぎ手を洗い東を向いて香島の大神を拝し、それから常陸路をすすむことになっていた。常陸路に入っての最初の駅家が榎浦津であったのに対し、常陸路の終点は粱津であった。常陸路を通過する伝駅使は、粱津から菊多(勿来)関を通り陸奥国の海道一〇駅を利用して、陸奥国府に達したのである。
『風土記』那賀郡の条に、平津駅家がみえる。平津は現在の東茨城郡常澄村平戸である。この地は涸沼(ひぬま)川と那珂川の合流点付近に位置する河口港であった。奈良時代に入り蝦夷(えぞ)征伐が活発になると、軍粮(ぐんろう)・武器などの補給物資が陸奥国の軍所に送られることになった。常陸国で調達した物資の一部は涸沼や那珂川流域から平津に集められ、ここから船出して途中、粱津に寄港し海路陸奥国に向かったのである。