勿来関については問題が多い。まず第一に同じ関でありながら菊多関、勿来関という、ふたつの呼びかたをなぜしているのであろうか。勿来関と同じ頃に置かれた白河関は、つねに白河関と呼ばれ他の呼びかたはない。あるいは菊多と勿来は、関の置かれていた場所がことなるのであろうか。
次に勿来関跡は、現在いわき市勿来町関田・関山にあてられているが、これは文政年間(一八一八~二九)に酒井素英と小野洞月が関跡と認定し、嘉永年間(一八四八~五三)に筒井憲が源義家の歌碑を建立したもので、関跡の遺構や史料があったわけではない。関山の地はたしかに景勝の地であるが、こういう山の尾根の頂上に関とか城を設ける例は、古代ではみられないのである。この地形では関守(せきもり)たちの日常の生活も不便であるし、断崖が海にせまり道路が波に洗われるような地が、古代の官道であったとは思われない。また、この地に関が置かれたとしても、関山を通って北に出た所は蛭田(ひるた)川と鮫(さめ)川の流域にあたる。このあたりは古代では広い氾濫(はんらん)原をなしていたはずなので、直進することはできなかったであろう。
したがって、常陸国から関に入るには、北茨城市関本町関本上からいわき市勿来町の大槻(おおつき)に出るコースや、富士ケ丘から勿来町の関根に出るコースなどが推測されている。また関本上からもと中山寺の置かれた中山を通り、勿来町の酒井に出るコースも注目される。酒井は「境」で国境の道がこの地を通っていたので名付けられた地名であろう。その酒井に関根の小字があるのも、関本からの官道が酒井(境)を通って関根に通じていたことを思わせる。今後の調査がまたれるところである。