国界の寺、中山寺

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奈良時代末期から平安時代初期にかけて蝦夷征伐が大規模になると、天台宗の活躍が目立ってくる。天台宗の祖最澄(さいちょう)の悲願は、鎮護国家と五穀豊穣による万民安楽であった。最澄は鎮護国家、守護国界の修法をつとめるため、六所宝塔を発願し『守護国界章』を著している。六所宝塔というのは、上野(こうずけ)・豊前(ぶぜん)・筑(ちく)前・下野(しもずけ)・山城・近江(おおみ)の六国に、それぞれ「安東」「安南」「安西」「安北」「安中」「安総」の祈りをこめた安国のための宝塔を建てて千部の法華経を納め、その功徳によって護国安民の大願を達成しようとするものであった。

 この内の「安東」「安北」、つまり東北安定(鎮護)の思想と、蝦夷地と境界を接する地を守護するという「守護国界」の思想は、蝦夷征伐と天台宗を深く結びつけることになった。やがて陸奥国内や陸奥との境界にあたる常陸国多珂郡・久慈郡の山岳地帯の山々など要衝の地に、天台宗の寺院が建立されたのである。関本町福田にある天台宗の中山寺は、『新編常陸国誌』によれば朝田山来迎院と号し、もとは関本上村にあったが焼失後、村内の中山に移したと伝えられ、古棟札に和銅元年(七〇八)善道院草創、天長二年(八二五)慈覚大師の建立とあるという。延享四年(一七四七)「常州多賀郡関本上村」の絵図には、勿来の酒井に通ずる国境近くの山地に「中山」の地名を記している。県境の酒井に約五〇〇メートルの位置の道の西側にある山腹に中山寺跡があり、礎石も残っている。この寺院跡の年代については今後の調査を必要とする。しかし、平安時代初期に国境にあたる関本上の地に「守護国界」の思想にもとづいて、天台宗の境界寺、つまり国界寺が建立されたことは疑いがない。


関本上村絵図(中山付近)