『華園山縁起』には、延暦十四年(七九五)征夷大将軍坂上田村麻呂が桓武天皇の勅を受けて、鬼魔退治のため奥州下向の時東金砂山・西金砂山・竪破(たつわれ)山・真弓山・華園山を草創した。本尊は大薬樹王の一本を一刀三礼して刻んだ仏像で、本丸は金砂山、樹中は真弓山、中丸樹末は華園山細丸と号して安置し、天下泰平と武運長久の祈願所とした、と記されている。
また、東金砂山の薬師如来、西金砂山の千手観世音菩薩、竪破山の釈迦如来、真弓山の釈迦如来、華園山の薬師如来は、慈覚大師が一刀にて西金砂山は本丸、東金砂山は中丸、真弓山は三丸、竪破山は四丸、華園山は五末丸の一本の神躰(しんたい)を分身した、という伝えものせている。
常陸国への天台宗の流入には、いくつかの背景が考えられる。そのひとつは日光連山の山岳信仰との関係である。日光連山に対する信仰は、古い時代からあったと思われるが、平安時代初めに日光連山は補陀洛(ふだらく)山と呼ばれ、農業に必要な降雨や穀物の豊穣をもたらす信仰が生まれていた。嘉祥元年(八四八)四月、慈覚大師円仁が二荒山を訪れて経典や仏具を施入し、薬師堂・山王権現などを建立してから日光連山は、天台宗と深いつながりをもつことになったといわれる。
農業に必要な雨や豊作をもたらすという日光連山の信仰は、常陸国にも伝わった。『華園山縁起』にも東金砂山・西金砂山・竪破山・真弓山・華園山の五山の神威を尊び、鎮護国家、豊饒豊楽(ほうじょうぶらく)の霊神とした、と伝えている。天台宗には、最初から仏神あげて国家を鎮護し、さらに五穀豊穣を祈念する思想があった。この性格が常陸国の山岳寺院に伝えられたのである。また、国家鎮護の思想は、奈良時代末期から激しくなった蝦夷征伐と結びつき、征夷大将軍坂上田村麻呂を天台宗寺院の草創者とする伝説が生まれたのである。