多珂郡の式内社、佐波波地祇(さわわちぎ)神社は、『三代実録』貞観元年(八五九)四月二十六日条にも「常陸国正六位上石船神、佐波波神並びに従五位下を授く」とみえる。現在、当社に比定される神社は二社がある。上小津田の佐波波地祇神社と大津の佐波波地祇神社である。
上小津田の神社は、『新編常陸国誌』によると、近世には佐波明神と称せられた。本殿の額にも「佐波大明神」、拝殿の額に「佐波神社」とあるので、普通には佐波明神と呼ばれていたのである。寛政八年(一七九六)四月の棟札には、「佐波波地祇神社」の名が記されている。
大津の神社は水戸藩の『鎮守帳』に「大宮六所明神」とあり、『水府志料』には「大宮明神社」と記されている。したがって、六所明神、大宮大明神を通称としていたのである。しかし、享保十二年(一七二七)四月の棟札には、「佐波波地祇神社」とみえ、明和五年(一七六八)初夏に祠官瀬谷内記は、「佐波波地祇神社」と記している。
上小津田の神社については、青山延彝の『常陸国二十八社考』や「常陸国佐波々神社記録」にもみえる社伝によれば、当社はもと現社地の塩原山から北西に一里(四キロメートル)ほど離れた佐波山に祀られており、その下に大沢があったので沢山の名が生じた。永禄十二年(一五六九)八月二十日、塩原山の山上に移し、その後、塩原山中腹の現社地に遷座した、というのである。
大津の神社は創祀年代は未詳。『水府志料』に「鎮座年月詳ナラズ。疑フラクハ斉衡・天安ノ間ナランカ」とあるが根拠がない。初め大津の沢山に鎮座したが、元禄年中(一六八八~一七〇三)、徳川光圀が大宮大明神と改称したという。大宮六所明神、大宮明神というのが近世初頭の本来の社名で、佐波波地祇神社の名はその後、式内社に擬せられたので、佐波波地祇神社と称し初めたともいわれている。祭神は上小津田の神礼が天日方奇日方(あめのひかたくしひかた)命を祀り、大津の神社は天日方奇日方命、大己貴(おおなむち)命、事代主(ことしろぬし)命、姫蹈〓五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)命、五十鈴依姫(よりひめ)命を祀る。