北茨城市には前九年の役(えき)に関する頼義・義家伝説が多い。『華園山縁起』や『新編常陸国誌』によると、鎮守府将軍源頼義その子義家が奥州下向の時、花園山に社参立願したという。上小津田にある佐波波地祇神社の由緒にも、頼義奥州征伐の途中、佐波神に和歌一首を奉納したとみえる。中妻の八幡神社由緒にも、源義家が軍をこの地に留めて戦勝を祈願したとあり、車の八幡神社由緒にも、頼義がこの地に陣し戦勝を祈誓して社殿を建てたと伝えている。関本下の八幡神社も、頼義がこの地に陣し、八里八幡を勧請したといわれ、関本町関本上の八幡神社も前九年の役に頼義・義家父子が、この地に男山八幡宮を勧請して戦勝を祈願したと伝えている。富士ケ丘の大塚神社由緒にも、頼義が北征の時、勿来関西道口の鎮護として再興したとある。
このように、前九年の役に関連した頼義・義家伝説があるのは、この時頼義・義家の軍が海道を通り勿来関を越えた、と考えられていたからである。しかし、前九年の役に際し征討軍が勿来関を通ったという史実は明らかでない。むしろ、常陸より下野に出て、白河関を越えた可能性が強い。頼義・義家伝説は当市に限らず、安良川八幡や竪破山・真弓山・東金砂山などにも戦勝を祈願したと伝えている。こうした伝説が分布する多賀郡・久慈郡の地が、佐竹氏の本拠地と重なることが注目される。とくに義家伝説に付随する頼義が、佐竹氏の祖新羅三郎義光の父であるのは、佐竹氏と頼義・義家伝説の結びつきの深さを物語る。また、源頼朝の奥州征伐や鎌倉幕府の開設も、寺社の縁起を頼義・義家に結びつける動機になったのであろう。