桜井の井戸

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中郷町上桜井・下桜井の地は、寛文十二年(一六七二)に桜井村から上・下に分かれたものである。桜井は康安二年(一三六二)正月七日の「佐竹義篤譲状」に「多珂庄桜井郷」とみえるので、古い地名である。

 『水府志料』に上桜井古蹟として、次のようにみえる。

桜井 古井アリ。径リ三尺許、深サ九尺許。土人桜井ト称ス。甃(いしだたみ)ノ形猶(なお)存ス。塵埃(じんあい)之ヲ埋ム。此村中江以北井ナシ。新ニ掘レバ変ヲ生ズト云。古歌アリ。

クメハウククマネハソコニカケウツルアラオモシロヤサクラヰノミツ

何人ノ詠ズルヲ知ラズ。一説ニ、夢窓国師薄葉ノ地ニ掛錫ノ日、之ヲ詠ズト。一説ニ、義家卿奥州征伐ノ日、之ヲ詠ズト。孰(いず)レガ是ナルヲ知ラズ。

 また『松岡地理志』にも、次のように記している。

里人桜ノ井と云伝フ古井アリ、元ハ井ノ側ニ桜ノ老木アリ、故ニ名クト云、今百姓彦八ト云者ノ屋鋪内ニアリ、四十年程以前マテハ、造酒水ニ用ヒタルヨシ、其後困窮シテ自然ト此水モ用ヒズ、今見ルニ竹木ノ葉埋テ、深九尺程、其径三尺許リ、井口ヲ岩ニテ畳ミタル形残リテアリ、然レトモ常ノ井ニ異ナル事ナシ、此村中江筋ヨリ北ハ此井一ツ而已(のみ)ニテ外ニ井ナシ、新井ヲ造レハ奇異ノ事アリト云、往古安陪〈倍〉晴明祭リタル井也ト云伝フ、然レトモ由来分ラス、

として「汲ハうくくまねハ底にかけうつるあら面白の桜井の水」の古歌を記している。この「桜ノ井」が桜井の地名になったのであろう。村で中江筋より北は、この井しかなかったので神聖視され、義家の八幡清水伝説に結びつけられたのである。また夢窓国師が登場するのは、弘法清水の影響を受けており、夢窓国師は弘法大師伝説と重なっている。


桜ノ井


関本下の八幡神社


関本上の八幡神社