治承四年(一一八〇)八月、源頼朝(よりとも)が伊豆に兵を挙げると常陸国内の豪族は頼朝に応じたが、佐竹忠義(ただよし)、弟の隆義(たかよし)、その子秀義(ひでよし)は平氏の権勢を恐れ、あえて頼朝の招きに応じなかった。そればかりではなく、隆義は当時京にあって平氏にしたがっていたのである。
駿河の富士川の合戦で平氏を敗走させた頼朝は、佐竹氏討伐のため兵をかえして常陸国に進撃した。十一月四日、常陸国府に到着した頼朝は計略をめぐらし、佐竹氏の縁者である上総介広常(かずさのすけひろつね)を遣わして忠義・秀義を誘い出し謀殺しようとした。誘いに応じた忠義はただちに殺害されたが、思慮あって参上しなかった秀義は金砂山(久慈郡金砂郷村)に立てこもり、山頂に城壁を築き要害を固めて寄手(よせて)に備えた。頼朝は麓の渓谷に軍をすすめたため、城中より飛び来る矢石(しせき)によって大きな打撃を受け、城を抜くことができなかった。『吾妻鏡』には、
かの城郭は高山の頂に構ふるなり。御方(みかた)の軍兵は麓の渓谷に進む。故に両方の在所すでに天地のごとし。しかる間、城より飛び来る矢石、多くもつて御方の壮士に中(あた)る。御方より射るところの矢は、はなはだ山岳の上におよびがたし。また巌石路を塞(ふさ)ぎ、人馬共に行歩(ぎようぶ)を失ふ……しかりといへども退去すること能はず、なまじひにもつて箭(や)を挟みて相窺(うかが)ふの間、日すでに西に入り、月また東に出づ
と苦戦を伝えている。頼朝は上総介広常を城中に遣わして、秀義の叔父佐竹義季を甘言をもって誘惑した。義季は広常を案内して金砂城の背後に回り、閧(とき)の声を作った。その声は城郭に響きわたり、不意を突かれた秀義らは周章狼狽(ろうばい)して防御を忘れ、城は陥り秀義は姿をくらました。