佐竹秀義と花園山

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上総介広常は秀義の逃亡した金砂山城を焼き払ったのち、車兵を方々の道路に遣わして秀義の行方を探し求めた。しかし、深山に入って奥州花園城に赴いたとの風聞があるだけであった。

 秀義が落ちていった奥州花園城は、華川町の花園山である。黒崎貞孝の『常陸紀行』にも「花園山、今は多珂郡に属せり。佐竹秀義金砂城を棄て陸奥国花園城に拠るといふ。此地なるよし」とある。秀義は花園山の猿ケ城渓谷にある岩窟に隠れたという伝説がある。西金砂山の堅城を頼朝の軍に敗られ、従者数十騎でこの山に逃れたとき、雨露をしのぐところがなく岩窟に隠れ、猿に食糧を給せられて越年したというのである。

 佐竹秀義が金砂山から花園山に逃がれたというのは史実であろう。東金砂山・西金砂山・真弓山・竪破山・花園山には、平安時代から天台宗系の山岳寺院が開山されていたのである。これらの山岳寺院は常陸五山とも呼ばれ、源頼義・義家が戦勝を祈願したという伝説もあって、佐竹氏との関係も密接だったに違いない。

 金砂山城を逃れた秀義は、真弓山・竪破山の僧徒の援助を受けながら花園山に至り、時機の到来を待ったのである。秀義が猿ケ城の岩窟に隠れ、猿に食糧を給せられて越年したという伝説にも深い意味がある。東金砂山・西金砂山・真弓山・竪破山・花園山などの山岳寺院は、いずれも日吉(ひえ)山王権現を勧請して守護神としたという開山の縁起をもっている。そして猿は、日吉山王権現の神使とされているのである。したがって、秀義が花園山に逃がれて猿ケ城の猿に助けられたというのは、花園山の日吉山王権現の加護を受けたことを物語る。

 文治五年(一一八九)七月二十六日、奥州征伐途上の頼朝が宇都宮を出立する時、秀義は常陸国より馳せ参じて忠誠を誓っているので、秀義は九年間も花園山にいたことになる。


猿ケ城の岩窟