大塚郷と大塚氏

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大塚氏は鎌倉時代から多珂荘大塚郷(磯原町大塚)の地頭として菅股城を本拠に勢力を振った豪族である。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻めたとき、大塚五郎次郎員成(かずなり)は、一族郎党を率いて参加している。「大塚文書」には、次のような軍忠状の写がみえる。

早く御一見状を賜り、且つは末代の亀鏡に備え、且つは恩賞に浴して面目を施し下さらんと欲し、員成御方(みかた)に参じ、軍忠致す間の事 右、今年元弘三 五月十八日、新田大館(おおだて)殿の御手に付き奉り、稲村ケ崎に於て車逆茂木(さかもぎ)を打破り、合戦致し畢(おわん)ぬ。同廿一日、新田大館孫二郎殿の御手に付き、浜鳥居(はまとりい)脇に於て、大勢中に懸(かけ)入り責め戦の刻、員成舎弟三郎成光(なりみつ)討死せしめ畢ぬ。同廿二日、葛西谷(かさいがやつ)に押寄せ合戦致す。若党中野新三郎家宗(いえむね)討死せしめ畢ぬ。此の条、相模国の御家人(ごけにん)大多和(おおたわ)太郎遠明(とおあき)、同国御家人海老名阿藤(えびなあと)四郎頼親(よりちか)見知せしめ畢ぬ。然れば早く御一見状を給り、且つは後証に備え、且つは恩賞に浴し、面目を施さん為、仍つて言上件(ごんじようくだん)の如し。

   元弘三年六月 日

     一見状給り了(おわん)ぬ

此の正文は恩賞奉行土佐守兼光(とさのかみかねみつ)許へ大将軍幸氏、別注進上し了ぬ。取置奉行人久保備中(びつちゆう)請収了ぬ。仍つて孫四郎殿に申し置了ぬ。


菅股古城図(『松岡地理志』)


菅股城跡遠望

 この軍忠状の大要は、元弘三年五月十八日、新田大館殿の御手に従い稲村ケ崎の合戦で車逆茂木を打ち破り、同二十一日は新田大館孫二郎殿の御手に属し、浜鳥居脇で大勢の敵中に駆け入り責め戦をした。その時弟の三郎成光は討死した。同二十一日には葛西谷に押し寄せて合戦をしたが、この戦いで若党の中野新三郎家宗が討死した。このことは相模国の御家人大多和太郎遠明と海老名阿藤四郎頼親の二人もみて知っている。だから早く御一見状を給り、後日の証拠にし恩賞に浴して面目を施したい、というものである。


大塚員成軍忠状(大塚文書)

 この文書にみえる新田大館殿とは、又二郎宗氏を指し、大館孫二郎は宗氏の子の幸氏のことである。大館氏は新田氏の一族で、新田義貞とともに鎌倉攻撃に参加したのである。元弘三年五月十八日の鎌倉攻撃は、極楽寺口、化粧坂(けわいざか)口、山ノ内口の三方から開始された。先鋒隊はこの日の未刻(ひつじのこく)(午後三時頃)、稲村ケ綺から鎌倉に突入した。北条方の反撃は強烈で、浜手の大将大館宗氏は稲瀬川のほとりで討死している。この先鋒隊の中に、大塚員成と一族郎党がいたのである。

 十九日には極楽寺坂で、二十日には霊山岬で合戦が行われた。二十一日になると大塚員成は大館幸氏の軍に属し、浜鳥居脇の合戦では敵勢の中に突撃を敢行した。この戦いで弟の三郎成光が討死したのである。この日、新田義貞の率いる主力が潮のひいた稲村ケ崎から鎌倉に突入し、極楽寺坂方面の防御を破った。二十二日には化粧坂、巨福呂坂の防御も破り、寄手は市中に殺到した。北条方は千余騎が葛西谷にひきこもって抵抗したが、ついに北条高時は自刃し、一五〇年にわたる鎌倉幕府は滅亡した。そして、この葛西谷の最後の合戦で大塚員成の若党中野新三郎家宗が討死したのである。こうして大塚員成は、南北朝動乱の始まる歴史の真只中に登場したのである。その後、鎌倉から帰った員成は南朝方に属して戦い、興国元年(一三四〇)に討死している。「佐竹御系図引証」にみえる興国元年八月十八日付「遠江権守貞兼奉書」には、大塚五郎次郎員成討死の忠により、員成の女子藤原氏に「多珂郡大塚郷内下方半分地頭職」を宛(あて)行うとあり、常陸中将(常陸国司源信世)の袖判(そではん)が付されている。