南北両朝勢力の接点

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南北朝時代の初め常陸と陸奥の国境地帯は、南北両朝の勢力が対立していた。石清水八幡宮領好嶋荘の預所職(あずかりどころしき)伊賀盛光(いがもりみつ)や陸奥国岩崎郡金成村(いわき市小名浜)地頭岡本良円・隆広らは北朝方に属していた。また石川荘を支配していた石川氏も北朝方で石川貞光や石川松河四郎太郎ら一族が活躍している。石川荘は福島県東白川郡古殿町や鮫川村北部にまで伸びていた。これら陸奥国の北朝方を統率していたのが、相馬郡小高城主で岩崎郡守護の相馬出羽権守親胤(そうまでわごんのかみちかたね)である。

 これに対して南朝方は、菊田荘を拠点としていた。菊田荘は八条院領といわれ、建武期に後醍醐天皇に伝領されたので南朝方の重要拠点となった。地頭職を相伝したのは小山氏である。荘域は湯本・釜戸・滝原・下川・岩間・窪田にまたがっていた。滝尻(いわき市泉町)には、小山駿河権守(するがごんのかみ)の館、滝尻城があり、湯本(いわき市常磐湯本町)には広橋修理亮経泰(しゅりのすけつねやす)や湯本少輔房(しょうゆうぼう)が城郭を構えていたのである。

 国境地帯における両朝方の勢力範囲は複雑で、菊田荘の南限の地である窪田(いわき市勿来町)が南朝方の拠点となっているのに、常陸国多珂郡内湯和美村(関南町神岡下)は、北朝方の池上藤内左衛門尉泰光(じょうやすみつ)が地頭職を安堵されていたのである。康安二年(一三六二)の「佐竹義篤譲状」にも「多珂庄関本郷」とみえるので、多珂郡の国境地帯は北朝方の勢力が優位に立っていたのである。

 暦応三年(一三四〇)三月二十日、広橋修理亮、高久彦三郎隆俊(たかとし)ら南朝方は、菊田荘大畑山(いわき市泉町)を占拠していた北朝方の岩崎郡守護相馬親胤、岡本隆弘(たかひろ)の軍に攻撃を加えた。隆広は右の高股を射られ、左の小腕(こうで)を切られる激戦であったが、南朝方は撃退されている。この時の合戦で、南朝方に属した多珂郡大塚郷地頭大塚五郎次郎員成が討死したという説もある。


湯和美城跡遠望