興国二年(一三四一)正月十三日、小田城(筑波郡筑波町)の北畠親房(ちかふさ)は、白河の結城親朝(ゆうきちかとも)に次のような手紙を送っている。すなわち、「常陸国多珂郡の境小三郎らの名主(みょうしゅ)が御方(みかた)に参じ功を立てたいと申し出ている。申す所に相違がないので、当郡を管理して境小三郎らを支配し、功有る者を申請するように」という内容である。しかし、親朝は親房の呼びかけに応じなかった。
境小三郎らはその後、要害を構えて親房に御旗の授与を願い出ている。そこで親房は願いを聞き入れ、近日に春日顕国(あきくに)(顕時)の軍が常陸方面に出陣する予定であるから、その折には行動をともにすることを命じ、五月四日にこの旨を結城親朝に知らせて、再度出陣をうながしたが親朝は応じようとしなかったのである。その頃常陸南朝方の鎮圧のため幕府から派遣された高師冬(こうのもろふゆ)は、瓜連城に入り佐竹氏の援兵を得て、小田城攻撃に出動しようとしていた。親房はどうしても親朝の援軍によって師冬の軍を挟撃し、形勢逆転を願っていたのである。そこで五月二十五日、法眼宣宗(ほうがんのぶむね)を通じ多珂郡の名主らが、城郭構築を完了し御旗を授与されるよう使者がきていることを再度親朝に伝え、出陣の催促をした。しかし南朝方の不利を判断した親朝は兵を動かそうとしなかったのである。
要害を構え南朝の御旗の授与を願った、多珂郡の名主境小三郎らのその後の消息は不明である。名主は荘園を構成する名田(みょうでん)の保有者で、名主職は領主の御恩として給せられていたのである。境小三郎は関本上と境を接する酒井(いわき市勿来町)の土豪で、多珂郡内にも名田をもっていたのかも知れない。境小三郎と呼応した多珂郡の名主も多珂荘の国境地帯の名田保有者であろう。彼らが国境の地に構築した要害は、関本町関本上の御城山城跡、館山城跡や関本町富士ケ丘の山小屋城跡などが考えられる。