元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府が滅びると、佐竹貞義(さだよし)は同じ源氏の出身である足利尊氏(あしかがたかうじ)に味方し、有力な足利党となった。建武二年(一三三五)七月、北条高時(たかとき)の遺児時行が信濃に挙兵して、鎌倉に攻め込んだ時も尊氏の弟直義(ただよし)を援助して奮戦した。翌年二月、南朝方の拠点であった瓜連城(久慈郡瓜連町)の攻防戦で、楠木正家(くすのきまさいえ)と戦った貞義は子息六郎義冬(よしふゆ)を失うという激戦を展開した。南朝方の抵抗は強く、佐竹氏を中心とする北朝連合軍も容易に近付くことができなかった。そのうえ南朝方では、北畠顕家(あきいえ)が義良(のりよし)親王を奉じて陸奥から南下してきたのである。鎌倉府の足利義詮(よしあきら)は、こうした情勢を知って驚き、足利少輔三郎や陸奥の北朝勢を瓜連に派遣した。時に陸奥国岩城郡好嶋荘(いわき市好間町)の預所職伊賀三郎盛光も北朝方に属して、瓜連城攻防戦に加わっている。建武三年十二月十一日、瓜連城は落城し佐竹氏は常陸北部地方の掌握に成功した。足利尊氏は翌年三月、瓜連城の戦いで討死した貞義の子六郎義冬の勲功を賞して、陸奥国雅楽(うた)荘(相馬市付近)の地頭職を貞義に与えている。また、貞義の子、義篤(よしあつ)・義香(よしか)・師義(もろよし)らが足利氏にしたがって、遠く摂津や筑前にまで転戦した功を認め、小田氏に替えて貞義を常陸の守護に任命した。
貞義が陸奥国岩城地方にまで勢力を伸ばしていたことは、建武元年(一三三四)九月七日の「飯野八幡宮造営注文」に、「別当庁屋伍間 絹谷村佐竹上総入道同彦四郎入道両人役所也」とみえることによって知られる。絹谷村は現在のいわき市平絹谷であり、佐竹上総入道とは貞義のことである。佐竹彦四郎入道は、貞義の叔父で岩崎郡豊間に住んだ義〓(よしひろ)を指している。