貞義のあとを継いだのは義篤(よしあつ)である。南北朝時代の佐竹氏の所領は、義篤が作成した譲状によっておおよそを知ることができる。
文和四年(一三五五)三月十一日、嫡子義香(よしか)(義宣)に譲った所領は、次のとおりである。
常陸国佐都西郡内太田郷、久慈東郡内高倉郷、久慈庄、那珂西郡、多珂庄、石崎保、那珂東郡内戸村、同郡小場県、陸奥国中野村、小堤村、佐渡南方、江名村、絹谷村、越中国下支河村、加賀国中林村
義篤は康安二年(一三六二)正月十一日に没するが、その直前の七日に嫡子以外の子女や寺院に所領配分した譲状には、次のようにみえる。
大炊助義躬(おおいのすけよしみ)分(小場(おば)氏)那珂西伊勢畑郷、久慈西塩子郷、多珂庄関本郷五分四、南荻津郷五分四、別府村、那珂東小庭村、那珂西中泉村
次郎宗義(むねよし)分(石塚氏)那珂西石塚郷、久慈西遠野村、多珂庄桜井郷、木佐良村、那珂東戸村郷
乙王丸(おとおうまる)分 那珂西穴沢村東西、竹原崎郷内人見左衛門大夫給分、久慈西岩崎郷、多珂庄高萩村、北小木津村、久慈東高倉内和久村、那珂西益井村
福王丸分(大山氏)那珂西高久半分、大山村、内田村
松王丸分(藤井氏)那珂西藤井郷北方内平沢蔵人給分、白井五郎入道跡、久慈西上村田郷人見修理亮給分
後家分(義篤妻)那珂西下泉村、久慈西上岩瀬郷
小田御前(おだのごぜん)分(小田孝朝妻・義篤女)久慈西久慈窪村、那珂東上野村、吉田郡石崎保
中(なか)御前分(那珂通高妻・義篤女)那珂西佐久山村、久慈西別所村
乙(おと)御前分(義篤女)久慈西下村田村、佐都西伊達村
周枢(しゅうしゅ)侍者分(月山・貞義庶長子・正宗寺第二世)久慈西下横瀬村半分
京御方(きょうのおかた)分(義篤妾・小場義躬母)那珂西中泉村
御梅局(おうめのつぼね)分(義篤妾・乙王丸母)久慈東高倉和久村
このほか勝楽寺領、同塔頭正徳院領、正宗庵領、清音庵領、同塔頭獅子院領、寿聖寺領、興国寺領が記されている。南北朝時代の佐竹氏の所領は、常陸北部地方から那珂川西岸の那珂西地方に広がっていたのである。
多珂荘関係の所領は、小場大炊助義躬に譲った「多珂庄関本郷五分四、南荻津郷五分四」、石塚次郎宗義に譲った「多珂庄桜井郷、木佐良村」、乙王丸に譲った「多珂庄高萩村、北小木津村」などである。したがって、多珂荘と呼ばれた範囲は、北は関本から南は南荻津(日立市)に至る海沿いの地であったことが知られる。