〔夢窓国師と臼庭〕

66 ~ 67

 春屋妙葩が編さんした『夢窓国師年譜』嘉元三年乙巳師三一歳の条に次のように記されている。

二月、内草(ウチノクサ)ヲ出デテ常州臼庭ノ接待(セツタイ)ニ至ル。彼ノ檀越(ダンオチ)、名ヲ比佐居士(ヒサコジ)ト曰(イ)フ。心ヲ此ノ道ニ留ム。且ツ素(モト)ヨリ師ノ名ヲ欽ム。故ニ忻然トシテ出デテ迎ヘテ問フテ曰ク、「師今何クニカ往ク。弟子小庵有リ、閑静ノ地ナリ。絶エテ塵累無シ。此ニ在リテ夏ニ坐セバ、彼此ノ事弁ゼン。」ト、師曰ク、「我レ本ヨリ再ビ仏国ニ参ジテ、以テ所疑ヲ決セント欲ス。宜シク此ニ在ルベカラズ。」ト。

 結局疎石は、比佐居士の言に任かせて彼の小庵に身を置くこととなった。

 嘉元三年(一三〇五)五月末のある日、疎石は庭前の木かげで涼を納(と)っていた。長くつづいた修業の疲れが出たのであろうか、時の経(た)つのを覚えなかった。やがて夜がふけてから気がついて、よろよろしながら庵中に入って禅床に上ろうとし、壁がないところをあるものと思い込んでよりかかろうとし、思わず転倒し、自分の不覚に気がついて失笑した。時すでに朝だったのである。

 この時の、悟りの境地をよんだ作が「閑中の偶作」あるいは「投機の頌(とうきのじゆ)」といわれているものである。

多年掘地覓青天  多年(タネン)地(チ)ヲ掘リテ青天(セイテン)ヲ覓(モト)ム

添得重々礙膺物  添得(ソヘエ)タリ重々礙膺(ジユウジユウゲヨウ)ノ物(モノ)

一夜暗中〓碌甎  一夜暗中(イチヤアンチユウ)ニ碌甎(ロクセン)ヲ〓(ア)ゲ

等閑撃砕虚空骨  等閑(ナホザリ)ニ撃砕(ギヤクサイ)ス虚空(コクウ)ノ骨(ホネ)


夢窓国師肖像


『夢窓国師年譜』

 この年の十月、疎石は、比佐居士の恩に謝し、臼庭をあとに鎌倉にかえり、仏国禅師の門をたたき、ここでの境地を報告することとなった。

 北茨城市臼庭の地は、このように夢窓国師疎石にとって深い関係をもつ地でもあり、その生涯上大きな意義をもつ土地でもあった。

 また、臼庭の地は、臨川寺の荘園として、夢窓国師の滅後(めつご)、鎌倉の円覚寺の正続院に寄進されることになる。後年、佐竹氏と関係深い常陸太田市の正宗寺にあった幻住庵が、臼庭の離山の地に牽(ひ)かれたのも、こうした理由によるものであろう。

 現在、離山の地には夢窓国師がかつて座禅の修行をしたといういい伝えのある横穴が存在する。江戸時代にはここで国師の追遠忌がいとなまれたことがあるという。


夢窓窟


春屋妙葩の書状