岩城氏の発展

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岩城氏は常陸大掾平国香(だいじょうたいらのくにか)の子孫である。国香の曾孫則道(のりみち)が岩城郡に土着し、岩城次郎大夫と称したのを初めとする。「岩城氏系図」(「国魂文書」)では、高久(たかく)三郎忠衡(ただひら)を祖としている。岩城郡好嶋(よしま)荘を開発して石清水八幡宮に寄進し、文治五年(一一八九)岩城太郎清隆(きよたか)は地頭に任じられ、以後岩城氏が地頭職を継承した。鎌倉時代には一族が好嶋荘内や岩城郡内に分かれて居住し、南北朝時代には岩城・白土・好嶋の三氏が大勢力となった。北朝方に属して目ざましい活躍をした好嶋荘預所の伊賀氏を圧倒し、戦国時代初期の応仁・文明の頃になると、岩城親隆・常隆は岩城・岩崎郡地方を統一したのである。

 佐竹氏は義香(義宣)の子義盛があとを継いで常陸の守護となったが、男子が生まれないままに没した。そのため鎌倉執事上杉憲定(のりさだ)の次男竜保丸(のちに義仁(よしひと)・義憲(よしのり)とも称す)を養子とした。佐竹一族の山入与義(やまいりよりよし)や額田義亮(よしすけ)らはこれに反対して挙兵した。応永十五年(一四〇八)六月、関東公方足利持氏(もちうじ)は反対する佐竹一族を抑え、竜保丸はようやく太田城に入って家督を継ぐことができた。応永二十三年関東管領職をめぐっておきた上杉禅秀の乱に際しても、佐竹惣領家と山入氏の争いはつづき、応永三十年、幕府が山入祐義(すけよし)を常陸守護に任命したことから抗争はさらに激化した。足利持氏が幕府に反乱をおこした永享の乱でも、佐竹氏は持氏方、山入氏は幕府方に分かれて対立した。佐竹義憲の家督を継いだ義俊(よしとし)と弟の実定(さねさだ)の間におこった相続争いにも山入氏が干渉したのである。文明九年(一四七七)義俊の没後、義治(よしはる)があとを継いだ。その頃佐竹領内では山入一揆が蜂起して大勢力となり、佐竹氏は防戦に苦しんだ。


『常陸誌料』の大塚氏譜