佐竹氏が山入一揆に対する防戦で危機に瀕(ひん)しているのを知った岩城常隆は、文明十七年(一四八五)七月、軍勢を率いて多珂郡に侵入し、車城・竜子山城(高萩市)・山直(やまのお)城(多賀郡十王町)を敗り、村松で佐竹軍と交戦して日光寺の堂塔を焼き払い太田城にせまった。佐竹義治は岩城勢を撃退することができず、車・竜子山両城などの地を常隆に奪い取られたうえ、常隆の妹を義治の嫡子義舜(よしきよ)の妻に迎えることで和議が成立した。
『赤浜妙法寺過去帳』に、文明十七年「花岳 車殿 七・一」とある。「花岳」は討死した車城主の法名であろう。「岩城系図」にも常隆が、「文明十七年巳車ノ要害攻落」と記されている。車城を陥落させた岩城勢は竜子山城を攻略した。時の竜子山城主は大塚伊勢守成貞であった。『常陸誌料』大塚氏譜に、次のようにみえる。
成貞伊勢守と称す。先世以来佐竹氏に服従す。文明十七年七月十一日、岩城常隆出兵し、多珂の諸城を攻め、車城を陥れる。成貞懼(おそ)れ出でて降る。
また『増修和漢合運図』(和光院合運)文明十七年条にも、「佐竹乱村松堂塔焼」とある。のちに六地蔵寺(東茨城郡常澄村)の僧恵範(えはん)は、「去る文明の比(ころ)、呉越(ごえつ)の兵鼓(へいこ)、頻(しき)りに常奥の際に喧(かまびす)し。紅白の軍旗は頓(とみ)に岩竹の地に聳(そび)える。悲しい哉(かな)、兵火は堂宇に罹(かか)り、軍風は寺内に甚(はなはだ)し。若干の伽藍(がらん)は、咸陽三月(かんようさんげつ)の紅(くれない)を作(な)し、一時に灰炭(かいたん)と為る」と「村松虚空蔵勧進疏(こくぞうかんじんそ)」に記している。中国春秋時代の呉と越の両国のように仲の悪い同志の岩城・佐竹両氏が、常陸と陸奥の境の地に兵鼓を鳴らし、紅白の軍旗(平氏より出た岩城氏の赤旗、源氏より出た佐竹氏の白旗)を翻して戦い、村松山日光寺の堂塔伽藍は、秦(しん)の都の咸陽宮殿が項羽(こうう)に焼かれ、紅の火が三か月燃えつづけたように灰や炭になってしまった、というのである。